NIE・・・新聞を読む能力と習慣を取り戻すために



 一昨日は、「宮城県NIE(Newspaper in education=教育に新聞を)研究大会」というものがあって、仙台の富沢中学校という所に行っていた。

 私は、じっくりものを考えるためには、紙に印刷された文字という固定メディアがどうしても必要だと思ってる。速報性も考えると、それはまず第一に新聞だ。話題の広さ、論客の多彩さから言っても、新聞に勝るメディアはない。それが一部130円や150円で買えるのだから、物価としても安い物の代表格である。活字やレイアウトの雰囲気、紙やインクの質といった情緒的なものまで考慮に入れると、ポイントは更に高い。だから、このブログの記事でも、新聞報道を話の糸口としたものが少なくない。卒業生はよく知っていることだが、「月曜プリント」(本物)の裏面にはたいてい新聞記事を印刷していたし、話のネタとして授業で使うことも時折ある。今は、「天声人語」の書き写しにも取り組ませている。

 ところが、インターネットの普及や、人々の活字離れといったことによって、新聞の発行部数は右肩下がりの状況らしい。新聞関係者の危機感も相当に強い。ここは、新聞を守るためにも、日本人の思考の質を確保するためにも、新聞を学校教育に用いる運動には参加せねばと、宮水では今春までの2年間、NIEの研究協力校を引き受け(→そのときのこと)、それが終わった今は、宮城県NIE委員会の高校部会長という役職をお引き受けしているのである。もっとも、「高校部会長」はまったく名前だけの虚仮威しで、何の権限も影響力もない閑職であり、ほとんど誰もそんなポストがこの世にあることすら知らない・・・(笑)。

 さて、世の中の様々なNIE実践を見てみると、工夫に基づく、実に様々なことが行われているが、基本は、気になった新聞記事を切り取って紙(ノート)に貼り付け、自分の感想・意見を書き添えるというパターンと、新聞作りをする、という二つのパターンである。一昨日の富沢中学校の公開授業も、2年生の総合学習は前者、1年生の学活は後者のパターンであった。前者を他愛もない実践と言ってはいけない。今や新聞を購読していない家庭が3割を超えるご時世、新聞切り抜きは宿題に出来ず、教員の側で生徒が自由に新聞を触れるような状況を用意してやらなければならないからである。

 だが、私には少し違和感が強い。というのも、そんなことが実践として常に求められれば、NIEというのは敷居が高くなり、近付きがたいマニアックな教育実践になってしまうような気がするからである。

 私の実践に表れているように、新聞を教育に利用するというのは、正に利用すればいいのである。生徒が新聞に接する機会を提供し、まれにでも、ああ新聞というのは面白いことも書いてあるんだな、と思うことがあれば、それで十分。効果や影響は、目の前で出なくても、向こう20年、30年の間には、何かの芽が出るかも知れない。NIEに限らず、私は教育を常にそんな意識でやっている。

 ところが、口幅ったい言い方だが、私が新聞を使うように新聞を使える教員は、さほど多くないというのも感じている。なぜなら、生徒以前の問題として、教員の側が既に新聞離れを起こしていると感じることが多いからである。つまり、気になった記事、生徒に目を通させてみたい記事を、プリントにして生徒に配るというのは、教員自身が新聞によく目を通しているという前提によってのみ成り立つ。好奇心と探究心を持って新聞を読む習慣を持ち合わせていない人にとっては、それもまた面倒で敷居の高い実践なのである。

 教員の新聞離れというのは困ったことであり、象徴的なことだ。象徴的というのは、生徒の学力低下を問題にするに当たって、そもそも教員の側にきちんとした学力があるのか、という問題と関連し、反映している、ということである。

 仮に、現在の教員と新聞との関係が、上で私の言ったとおりだとすれば、まずは教員が新聞に触れ、その価値に気付くようにしなければならない。もちろん、それは県からの命令というわけにはいかない。そこに「NIE」運動の価値がある。確かに、エネルギーの必要な、敷居の高い実践が多いし、研究協力校になると、実際、そのような実践をしないと報告の時にも格好が付かず、困ることになる。だが、そういう意識的な取り組みを学校単位で無理矢理することによって、新聞というものに教員の意識が向き、やむを得ずでも新聞を手に取り、それが教室でどのように使えるかと考えるようになることは貴重なことだな、と思う。そのような新聞への意識は、実践という形を取らない部分も合わせて、生徒に及んでいくだろう。

 新聞離れは、少子化と少し似ている(→少子化私見)。少子化が進むと、出生率を上げるためにはどうしたらよいか、という議論が始まる。出産・子育ては、元々、生き物としてごくごく当たり前の作業だったのに、いざ意識して出産を増やそうとすると、その実現はなかなか面倒である。一度失われてしまった能力や習慣を取り戻すのは難しい。しかも、人間は常に易きに流れ、目前の利益に溺れる。だからこそ、今のうちに「NIE」運動を推進して、新聞離れを食い止め、世の中がこれ以上、浅薄皮相な思考で埋め尽くされないように努力しなければならない。私はそんなふうに思っている。