フィンランドの教育を考える(4)



 (2)で少し触れたが、フィンランドの授業時数は、OECD諸国の中で最も少ない。7〜14歳における総授業時数は約5500時間で、日本は約6200時間。最も多いイタリアは8000時間を少し超えるが、そのイタリアは、総合読解力において、PISA2000で31ヶ国中20位、2003で40ヶ国中29位と、下位に位置している。

 こうなると、授業の時間数と「学力」とはどのような関係にあるのかを考えないわけにはいかない。

 私が日頃生徒を見ていて思うのは、「成長」が何によって実現するかと言えば、一つに、単純な時間の経過、つまり何をしているかに関係なく、時間さえ経てばそれなりに「成長」するということである。もちろん、何もしていない時間というものは存在しないわけだから、その時間の経過の中で行っていることによって成長するのだろうが、その行為は何でもいいということである。もう一つは、「きっかけ」である。これは、内発的な学習ということと関係するが、人間は何かによってインスピレーションを得て開花するということがよくある。学習は内発的でなければ本物にはならないし、内発的に学習が行われるためには心の琴線に触れる「きっかけ」こそが大切である。しかし、時間の経過の中に「きっかけ」を得る瞬間が含まれるので、これら二つは別事ではない。

 内発的な学習を重視する立場に立てば、授業は目覚めた生徒に問題の解決や掘り下げ方のヒントを与え、教える時間である。外圧で長い時間がかかることも、内発的な動機があればごく短時間で身に付くだろうから、授業時数はさほど多くする必要がない。授業を、目覚めの「きっかけ」を与えるための作業であると考えることも可能である。そう考えれば、目覚めの可能性を高めるために、授業は多い方がいいということになる。しかし、上で触れた通り、「きっかけ」は授業以外にもいくらでもあるし、授業の形を取ったからといって、生徒の目覚めの確率を高めることが出来るかどうかは怪しく、どうせ希薄な可能性の世界なのだから、授業時数にこだわる理由にはならないだろう。フィンランドの授業時数が少ない背景には、これらのような考えがあるのではないだろうか?

 では、日本における最近の「授業時数確保」の圧力はいったい何なのだろうか?根拠として必ず登場するのは、「学習指導要領」における「1単位×35週」、つまり授業を35週確保するのが標準という規定だ。これは、現実として非常に難しい数だ。しかし、なぜ35週なのかは誰に聞いても分からない。おそらく、かつての文部省の役人が机上でカレンダーを見ながら、授業以外に、学校にはどれほどの雑務や生徒指導上のトラブル、行事が存在するかをあまり考えることなく、35週なら出来ると考えた、典型的机上の空論であると私は想像する。しかし、一度明文化されると数字は一人歩きを始め、それが実現できないのは現場の問題というように、論理が逆転していく。

 残念ながら、私の知る限り、授業数を多く確保すれば生徒が伸びるという意見が平教員から出たのは、前任の仙台一高だけだ。しかし、それは「受験学力」を生徒に身に付けさせるための方法として語られるだけであって、学ぶことの理念についての配慮があったわけではない。これは非常に貧しい学力観である(注:ここらで、そろそろ誤解している人が居ると思うので、改めて確認しておく。フィンランドの「学力」が高いと言う場合、その「学力」は、PISAが測ろうとした「学力」であり、それは整理された知識ではなく、「社会における具体的な問題の解決に積極的に参加する能力」である。それは、多くの知識を詰め込むよりも、はるかに高度な知的能力である。今年7月22日に書いた通り、日本人は「学力=知識」という考え方が、骨の髄まで染みこんでいると思われるので、油断するとすぐにその学力観に基づいて考え、評価してしまうと思われる。)。管理職にそういう人が多いのは、上から目線で、金科玉条たる「学習指導要領」を現場で具現化することこそが大切だと思っているからに過ぎない。それ以外で、授業は出来るだけ多く確保すべきだと考えている平教員には会ったことがない(ただし、いくら少なくてもよいと考えているわけではない)。

 つまり、学びを内発的なものであると考え、その原則を守り抜こうとすれば、授業時数はさほど多い必要はなく、授業を客観的な知識を外圧で注入する場と考えれば、授業時数に比例して身に付く知識も増えるので、多くすべきだということになる。確かに、授業を多く設定しようとしている日本は、試験のあり方といい、一斉授業を中心とするしかないひとクラス当たり生徒数(フィンランドの約2倍!!)といい、客観的な知識の注入こそ授業の役割だと考えているようだ。ある意味で非常に整合的である。しかし、現場の教員の多くが、「授業時数確保」の圧力を冷ややかな目で見ているのは、そのような学力観・学習観に疑問を抱いているからである。フィンランドはそのような学力観・学習観には立っていない。そう、問題は授業が多いか少ないかではなく、「学力」や「学習方法」をどのように考えるかなのである。

 フィンランドの教師は授業のための存在である。だから、授業以外の仕事は少ない。教員の労働時間1600時間のうち、授業が60%を占める。しかも、授業さえ終われば、あとは授業の準備(研修)をしていることになっていて、それは自宅で行おうが、図書館で行おうが自由である。一方、日本では、高校の場合、1940時間の法定労働時間のうち、授業に費やされているのは20%強に過ぎない。しかも、残業のない教員などほとんど存在せず、実際の労働時間は2500時間以上にもなるだろうから、それを分母とすれば授業の比率は20%を切る。最近、「授業が大事」と言い、「授業時数の確保」ということに非常にうるさい日本の学校で、授業がいかに大切にされていないかがよく分かる。教員が勉強するための時間を確保できずに、質の高い授業などあるものではなく、従って、その授業で生徒が伸びるということも考えにくい。

 これまで見てきたように、発想も目指している方向もまるで違うのに、「学ぶ」とか「学校」という言葉が共通するというだけで共通の何かがあるように誤解し、PISAという同じ土俵で「結果」を比較し、片方は自分たちがなぜ1位になったかもよく分からず、称賛されて当惑し、片方は危機感を持って「対策」を講じるというのは、滑稽でもあり悲劇でもある。(つづく)