フィンランドの教育を考える(5)



 「国際経営開発研究所(IMD)」が発表した、「大学教育が経済のニーズに合っているか」というデータ(2005年)がある。その指数(算出方法未詳)は、またも1位がフィンランドで7.97。日本は3.75で、60ヶ国中最低に近い56位である。PISA調査の総合読解力における差どころの話ではない。「世界経済フォーラム」による国際競争力比較でも、日本が10位前後であるのに対して、フィンランドは1位の年が多い。

 これは、やはりフィンランドを評価すべきなのだろうか?

 と言うのも、私は以前からしばしば「生活に必要なことは、その必要性を自覚できるので勝手にやればよい。学校では、むしろ、必要性を自覚できない、それでいて人間として大切なことを勉強させるべきだ」という発言を繰り返してきたからだ。つまり、例えば私が担当している国語の授業の場合、入試問題演習などは各自の家庭学習と予備校に任せておけばよく、授業では、よい文章を批判的に読む作業を大切にする、ということになる。国語以外の、客観的知識を与えることになりがちな科目においても、今勉強していることが、自然や人間の本質とどう関連するかを考えさせることを重視し、入試に出る可能性が高いかどうかなど問題にしない、ということである。この考え方によれば、勉強が経済のニーズに合っているかどうかなどどうでもいい、ということになる。

 だから、私は上のデータを見て、一瞬当惑を覚えたのだが、よく考えれば、これは決して問題にはならない。なぜなら、フィンランドでは知識注入形の授業を行っておらず、目指している学力は「経済的発展を実現するために必要な能力」ではなく、「自分で問題を発見し、考え、解決させる能力」だからである。つまり、経済活動を支える能力を身に付けさせようとしてIMDのデータで1位になったのではなく、ごく当たり前の学習のあり方を追求した結果として、そこで身に付いた力が経済のニーズにも合致した、ということなのである。おそらくこれは経済だけではない。どのような分野にも、自ずから合致するはずである。

 世の中で「してはいけないこと」を全て明文化しようとすれば、それは膨大な量になるだろう。それを覚悟で明文化したとしても、時の流れと共に、それまでにはなかった場面が登場し、そこにまた新たに「してはいけないこと」が発生するので、またリストに書き加えていくことになる。例えば、学校でも、制服の改造や奇抜な頭髪が生徒指導上の問題とされ、禁止事項となることは多い。しかし、生徒は何を禁止しても、必ずまた新たに別の、規定にはない斬新な改造・髪型を考え出すものである。「〜以外は禁止」としても、それに触れないように、教師集団が「高校生らしくない」とする格好を考え出す。

 ここでは、そのような指導のあり方の是非は問題としない。問題なのは、個別に対応すればキリがないが、「良識」や「常識」というものがあれば、いろいろな局面で適切な行動が出来るはずだ、ということだ。フィンランドの学力は、「良識」「常識」に相当する。それがあることで、いかなる場面でも対応が出来るのである。一方、日本は個別対応である。原点にあるものを疎かにしたまま、個々の場面での対応方法を一つ一つ教えていく。だから、分野や起こっている出来事が違えば、また新たな方法を教え(注入し)なければならない。このような応用力の弱さは、当然のこと経済のニーズに反することになる。

 日本型の「学校」「教育」は間違っているのだろうか?歴史的に考えるなら、学校はもともと知識注入の場所で、内発的な学習の尊重どころか、恐い先生がにらみを利かす中で緊張感を持って与えられた課題に取り組む場所であったと思う。9月20日に書いた通り、「学」や「教」という漢字には、明らかに強制的で恐ろしい昔の学校の姿が投影されている。しかし、思えば、学校で学ぶことが出来る人は特権階級である場合が多かったし、日本の寺子屋のように、学校が庶民に開放されても、そこで教えられることは「読み書きそろばん」という極めて基礎的な事柄に限られていただろう。また、中国において盛んだった科挙の試験に合格することを目指した学習は、価値観が一本化された単純な世界であった。

 ところが、現代は、教育が全ての人に開放された上、身に付けるべき知識が高度になり(抽象的で、「食える」ということから遠い知識・技能ほど文化的だという法則が存在する)、個人の活動の場は広がり、価値観が多様になった上、時代の変化も激しくなった。これに対応することを考える時、日本のような客観的な知識を注入する硬直したやり方は時代遅れであり、フィンランドのような学習や思考の基礎を大切にしたやり方こそが求められるというのは自然で明らかに思われる。だから、かつては日本のような学校のあり方、学力観も間違いではなかったかも知れないが、現在においては「間違いである」と明確に言い切る必要があるだろう。

 私が以上のように書くことで誤解してはいけないのは、フィンランドのやり方は「現代的な」ものではないということだ。かつて試みられたことのない新しいやり方を探してたどり着いた方法ではなく、学習と民主主義の理念、人間とはいかなる生き物かという人間観に照らして正しいと考えられた方法に見えるからだ。おそらくこのやり方は、民主主義が否定されない限りは生き残り、むしろ他の国々へと少しずつ広がっていくだろう。ただし、一部の人だけが理念に目覚めているだけでは成り立たないシステムなので、それは非常に難航が予想される。そして、このやり方を遂に受け入れることの出来ない国(今のところ日本はそうなる可能性が高いように思う)は、かつての戦争のような、手痛い挫折を味わうことによってのみ、そのような教育に目覚めることが出来るのかも知れない。(つづく)