試験とラベルの教育(2)



 「考査」と「受験」があれば、その結果がラベルとして機能するのは自然である。何点取れたか、どんな試験に合格したか・・・これがその人を計るバロメーターとなる。なければ、学校のグレードというものが発生しにくくなる。評価がひとつの規範として人を縛ることもなくなるだろう。

 欧米では、20代の半ばを過ぎてから大学に入ることが珍しくない。徳永保、籾井圭子『グローバル人材育成のための大学評価指標』(協同出版、2011年)によれば、欧米の大学において25歳以上の学生の入学者に占める割合は、平均で21%(最高は39%=アイスランド)。それに対して、日本は2%である。25歳を過ぎてなぜ大学に入るかといえば、社会に出て働く中で、大学で学ぶ必要性を実感したから以外には考えられない。各自の学ぶことへの問題意識は、このような状態でこそ強い。「高校くらい出ておきなさい」と言われて、嫌々入学してきた生徒が、意欲的に学ぶことなどあるわけがない。

 また、例えば、高校を卒業してから5年経って大学に入るとすると、高校と大学の因果関係は切断される。日本で言う「いい高校」とは、大学受験で成果を上げている高校である場合がほとんどだから、そんな評価は意味を失うだろう。

 以前書いたことがあるが(→こちら)、世界でも有数の高学力国・フィンランドの学校には「考査」がないらしい。少しでも「いい高校」「いい大学」へという意識もほとんど無く、大学入学生の4人に1人は25歳以上である。

 6月の何日だったが、我が宮水の若手のエースW先生が、みやぎ教育文化研究センター主催の福田誠治氏講演会に行って、感心して帰ってきた。福田誠治氏とは、フィンランド教育の最も著名な研究者である。W先生の偉いところは、休日にわざわざそういう民間の学習会に出かけて行くところもだが、さんざんフィンランドの教育に感心し、感化されながらも、そのやり方を日本にそのまま輸入してもダメだ、ということに気付いていた点にある。そこには、国民性という大きな壁があるのである。

 昔からよく言われるとおり、日本人は「個」が確立していない。だから、周囲の顔色を伺いながら相対的に物事を考え、何が正しいかに関係なく、その場を円満に収めることを考える。当然、評価も他に頼る。つまり、自分がある人の実力や個性をどう判断するかではなく、○○大学卒とか○○賞を取ったとかいう外面的なことが、大切な価値なのである。

 ここで思い出すのは、今話題の「富士山」である。世界遺産に指定されようがされるまいが、富士山は富士山なのに、「世界遺産」という箔が付くと、突然ありがたいものに見えてくる。人がわんさか押しかけると、それを見ながら、自分も行かなくては、という意識を持つ。海外旅行の宣伝でも、目的地に「世界遺産」があることは重要なセールスポイントのようだ。

 富士山も学校における「評価」も同じだ。「テスト→強制とラベル(形式)主義の発生」という構図は、個が未熟だという日本人の国民性と絡み合って、学ぶことを非常に貧しいものにしている。「日本の教育の本当の危機」を解決させるためには、この点をどうしても避けられない。

 『学習指導要領』は、部分的に見れば、なかなかまともなことも書いているけれども、この問題を無視しているため、「日本の教育の本当の危機」を解決させる道筋は何も示せていない。例えば、評価についていくら立派なことをあれこれと論じても、結局のところ、点数が付けられ、それが調査書に記載され、受験に影響力を持つ以上は、きれい事に過ぎないのである。加えて、内側から湧いてくるものを作るためには、指導者自身が内側から湧いてくるものによって動く必要がある。結局のところ『学習指導要領』は「規則」であって、「規則」であれば、現場がその通りにやっているかどうかをチェックしながら管理することが必然となる。「日本の教育の本当の危機」を的確に指摘する人たちが、その矛盾に気付いていないとすれば、それは滑稽であり悲劇である。(終わり)