試験とラベルの教育(1)



 予告通り、今日は東北歴史博物館で行われた「教育課程研究集会国語部会」というのに出席していた。「研究集会」とは名ばかりで、批判検討することは許されておらず、もしくはやっても聞いてはもらえず、ただお上の教育思想を拝聴して、忠実に実行できるようになることだけが求められている会である。そこで黙っていたので、この場で鬱憤を晴らそうなどというバカバカしく惨めたらしいことをしようというわけではない。ただ、話を聞いていて、教育に関する一般論を少し書いておこうと思っただけである。

 最初に、日本の教育の現状が、PISAを始めとするデータによって、OECDを中心とした他国との比較の中で語られた。それによれば、日本の中高生は、以下のような傾向を持つ。

・試験をすればほどほどな点数を取る。

・勉強を楽しいとは思っていない。

・勉強と生活との結びつきが自覚できていない。

・自分はできるという自信がない。

・趣味としての読書をする生徒は少ない(漫画を読むことだけは世界一)。

・科学技術の基礎概念の理解度も低い。

 そして、まとめとして導かれる、日本の教育の危機的現状とは、

1 学びに対する興味関心の希薄さ

2 将来との関連性の見えないままでの学び

3 受験終了後に剥落する「知」の危険性

だという。この分析・認識は十分に正しいと思うし、日頃の私の実感とも近い。だが、この後、これらの克服のために何が必要かというと、それは「何よりもまず、学習指導要領を踏まえた指導、『生きる力』を育成する指導が求められる」だとなると、「おいおい待てよ」である。

 そもそも、なぜ1〜3のような問題が発生するのだろうか?

1→本人の興味関心に関係なく、今、これはやらなければダメだという一律の強引な押しつけがある。

2→学校で教える内容が一般的であることを求めすぎている。また、そのためか、必要なのが技能・知識ではなく「高卒」もしくは「○○高校卒」というラベルになっている。

3→合格すればラベルは得られるので、そのために身に付けたものはもう要らない。

 私は以上のように考える。もっと簡略化させて言えば、今の教育の危機的状況を作っているのは、押しつけとラベル(形式)主義、であると言えるだろう。また、学校で学ぶことが一般的(国数英など)でいいのは、それ自体に楽しみを見出せるか、それを自在に応用できる知的水準の高い人間だけなので、どちらかというと、日本の学校というのは、理想的高水準を前提として作られすぎていると言えるかも知れない。なにしろ、水産高校でさえ、いくら「手足で学ぶ」と言ったところで、授業の半分は普通科目で、実科の座学も含めると、3分の2は座学なのである。

 多分、根っこの所には1がある。人間が、いつ何に興味を持つかというのはまったく千差万別であるから、個人の興味関心を尊重すれば、進度や教える内容は一定に出来ないのが当然である。では、なぜ日本の学校が「一定の進度・内容」から脱出できないのかというと、「考査」とその延長線上にある「受験(高校や大学のものだけでなく、就職も含む)」があるからだあろう。「考査」と「受験」がある限り、一定の時期までに、範囲として課せられた一定の内容を一律に注入することが必要になる。だから、興味関心という内側から湧いてくるものを大切にし、受験が終わったら知が剥落するという状況を克服するために最もいいのは、「考査」を廃止する、15歳でみんなが高校に入り、18歳で大学に入るのを「当たり前のこと」にしないことなのである。(続く)