ハゲタカ学会と高等学校

 今日の毎日新聞で、「ハゲタカ学会」についての記事を読んだ。新型コロナウルス流行下で各学会のオンライン化が進む中、参加料収入を目当てにした粗悪な国際学会が増加しているのだという。その特徴は、無関係の複数の分野にまたがる学会を合同で開く、参加を勧誘するメールを不特定多数の研究者に送る、参加や発表に関するチェックが非常に甘い、といったものらしい。基本的に会費を払えば参加も発表も可能のようだ。
 記事に例として挙げられていたある研究者の場合、約10人が参加していたZoomによる会で発表し、ベストプレゼンテーション賞を受賞した。しかし、どのような人が参加していたかは分からず、質問もなかった。参加料は約64000円だったという。おそらく、ベストプレゼンテーション賞は、発表の内容や質に関係なく、全ての参加者(=発表者)に出されたのだろう。
 何年か前から、「ハゲタカジャーナル」という言葉を耳にするようになった。査読(審査)が極めて緩やか、もしくは無く、お金さえ払えばOKという電子ジャーナルだ。それと同様、研究者の世界で生き、より良いポストや研究費を得るために、手っ取り早く実績が作れる場として需要があるのだそうだ。
 私自身は、それらしき勧誘を受けたことはないが、こうして記事を読んでみると、いろいろ思うところがある。
 まずは、ハゲタカ学会・ジャーナルとそれ以外を区別するのが決して容易ではないだろう、ということだ。そもそも学会には、成立させるための資格要件などあるのだろうか?お友達同志のグループで「何とか学会」を名乗ることが許されないのか?という問題である。世の中の学会には、加入に紹介者が必要な所もあるから、そういう所に比べれば、確かに信頼には値しないが、加入に条件のない「まともな」学会だって少なくないはずだ。上に書いた「例」の研究者だって、参加した時にはそれがハゲタカ学会であるとは知らなかったという。当たり前だ。その学会が自ら「ハゲタカ学会」を名乗っているわけがない。
 なぜ、こんな組織が隆盛するかと言えば、やはり上で少し触れたとおり、より良いポストや研究費を得るために、研究者が「業績」作りに汲々としているからである。特に任期付の不安定な身分の人たちにとっては切実である。

 だが、この業績は外形的な、いわば「ラベル」に過ぎない。その人の研究内容や質を把握したければ、その人が書いた論文を読み、直接会って話をするのが一番いい。しかし、それがとても大変な作業なので、人は「学会発表何回」「論文何本」「著書何冊」という外形で評価しがちだ。その場合、1回1回の発表、1本1本の論文、1冊1冊の本の質は問題とならない。それが分かっている研究者が、ラベルの枚数を増やすために、学会なんてどこでもいい、論文発表の場所なんてどこでもいい、面倒なことを言わないことこそが大切だ、と考えるようになる。
 実は、私は学会や学術誌だけではなく、高校や大学でも同じだと思う。高卒かどうか、大卒かどうかは問題とされるが、本当にその人に高卒や大卒というに見合った実力があるかどうかが問われることはない。どこの学校を出ているかということが話題になることはあるが、少なくとも公務員試験や資格試験受験のための条件で問題になることはない。
 最近は、どこの高校にも、不登校となり、退学してしまう生徒が一定数いる。その子たちの大半は、高校卒業という資格を求め、通信制の学校に籍を移す。そんな受け皿となる学校が今の世の中には驚くほどたくさんある。それらの学校は、たいてい「いかに縛りのない学校か」「いかにスクーリングの日数が少ないか」を売りにしているような感じがする。それらの学校が、どれだけ「高卒」に見合った内容を生徒に与えられているのかは知らない。だが、それらの学校だけではなく、私が勤務しているような「普通の」高校でも、卒業生についてどれだけの品質保証ができているかは甚だ怪しい。多くの人が見、求めているのは「高卒」というラベルである。その人の実力が知りたければ、その人と直に向き合い価値を推し量る必要がある。
 手っ取り早く価値を評価するために、人はラベルを求める。それがハゲタカ学会やハゲタカジャーナルを生み、学校教育をも形骸化させる。誤解を覚悟であえて言えば、ハゲタカ学会がもっとたくさん横行すればいいのだ。「学会発表何回」という「実績」がとことん信頼を失った時に、人はその人自身の実力、或いは組織一つ一つの性質を直視することを始めるからである。
 手間と価値は比例する。手間のかかっていないところに価値はない。これは普遍的な真理である。