終わって寂しい「ドラゴン桜2」

 「ドラゴン桜2」が終わった。本当は、今週の日曜日が最終回だったのだが、我が家には、年齢の割に寝る時間が異常に早い息子がいるため、21時からの番組であるにもかかわらず、録画しておいて月曜日以降に見ることになっていた。昨夜は、私が外出していて家族がそろっていなかったので、持ち越しで今日になってしまった、というわけだ。
 この間、我が家は全員夢中になって見ていた。私も「面白かった」、と同時に感銘をも受けた。あまりにも出来すぎた筋書きは、日曜夜のエンターテインメントだと思えばいいことにして、とにかく登場人物が個性的かつ魅力的だし(それを演じきれる俳優ってスゴい!!)、人間同士の豊かなコミュニケーションがあるし、なにより、主に桜木先生が語る「勉強」や「受験」についての考え方に共感するところ大であった。何かにつけて天の邪鬼な私が、これほど肯定的な思いだけをもってドラマを見ることができたのは珍しい。
 なにしろ、最終回は視聴率が20%を超えたというヒット作である。勤務先の高校でも見ていた生徒が何人かいたようだ。ある時、ある生徒に「ドラゴン桜の桜木先生って、平居先生と同じようなこと言っていますよね」と言われて驚いた。確かにそうなのだ。そのことに気付いた生徒はえらい。だが、それはある意味で当たり前。学ぶということに真摯に向き合った経験のある人間は、誰しも同じ結論に到達するはずなのである。と言うことは、「ドラゴン桜2」の原作(←私は読んだことがない)なり脚本なりを書いた人が、真摯に勉強に向き合ったことのある人間であることを意味する。少なくとも、学習指導要領を作っているキャリア官僚や学識経験者よりは、よほど「学ぶ」ということの本質が分かっている。
 残念ながら、私はメモを取りながら見ていたわけではないし(笑)、録画を改めて見直すことも出来ないので、話はなんとなく漠然とするのであるが、第2回だっただろうか。桜木先生が、龍海学園の生徒に向かって説教をする場面があった。勉強することの必要性を訴える場面なのだが、そこで語られた、政治家が国民をどのような目で見ているか(政治家が国民に何を求めているか=何も考えず、馬車馬のように働き、税金を納めること、だったかな?)ということだって、正に真理である。
 現実問題としては、偏差値最低ランクの高校から、1年ほどの期間で東大合格5人を出せることなどあり得ない。いかに東大がマニアックな知識を求めず、独自の思考力を求めているとしても、それはマニアックな知識を求めていないだけであって、それなりの知識は必要だ。そして、学力が低い生徒というのは、常識の範囲の知識を常識として身に付けることも非常に難しい。「天才とは努力し得る才である」とも言うとおり、そもそも才能の無い人間は、努力を継続すること自体が難しい。その意味で、このドラマはいかにも虚構である。
 いいではないか。東大合格を保証するマニュアル番組ではないのだから。家族で楽しく見ることができて、なおかつ、学ぶとはどういうことかが分かり、豊かな人間関係に涙できるのであれば、十分に価値がある。
 日曜日の夜9時からと言えば、Eテレ「クラシック音楽館」の時間で、私はこちらもたいてい録画して、後日少しずつ見ることが多かった。我が家の安いDVDレコーダーは、二つの番組を同時には録画できない。多数決の論理に従って私は排除され、2ヶ月の間、ドラゴン桜が録画され続けた。来週からは再びチャンネル権が私に戻るという安心と、私自身も楽しみにしていた「ドラゴン桜2」が終わってしまったという寂しさの中で、今はなんとも複雑な気分である。