夫婦同姓再考

 夫婦別姓を認めないことが憲法に違反するのではないか?という問題について、最高裁判所の判決があった。様々なマスメディアで非常に大きく取り上げられているとおり、判決は「合憲」であった。
 大法廷判決なので、どの新聞にも、15人の判事がどのような判断をしたかについての記述があった。それによれば、合憲:違憲は11:4だったらしい。前回、2015年に同じく大法廷でこの問題についての判断が下された時(→その時の私の感想)から、最高裁の判事は12人が替わった。それでも判決の内容は基本的に変わっていない。
 私は、裁判所が「合憲」の判断を下したことに賛成はしないけれども、絶対におかしい、とまで言う気はない。現在、夫婦の96%が男性の姓に合わせて、女性が姓を変更するのだそうだ。しかし、民法で「夫の姓に合わせる」と書いてあるなら間違いなく違憲だろうが、「どちらでもいいからどちらかに合わせる」というなら、法の上での「男女平等」は実現されている。したがって、「基本的人権に反する」とまでは言えず、違憲判決を出すのは難しい。最高裁判決の「夫婦同姓の強制は現行の規定とは齟齬が無い。これで文句があるなら国会(=裁判所で判断する基準=法を作る場所)が何とかしろ」というのはあまり間違っていない。裁判所が考えるべきことは、世の中をどうするか、何が正しいかではなく、現行の憲法や法律に反しないかどうかなのである。判決は自ずから保守的となる。
 今回の判決に批判的な立場の人で「時代遅れだ」と言う人は多いように見えた。今、たまたま私の目の前にある毎日新聞の社説も、「時代に背を向けた最高裁」と見出しを付けている。学校の会議でも、時代論は多い。「今どきそんな理屈は通用しないでしょ」「ご時世ですから」の類いだ。
 私はそのような意見に対して常々極めて批判的である。そのように相対的な考え方をしてしまうと、世の中が間違った方向に大きく動いている時に抵抗することなどできない。時代がどのように動いていようとも、そもそも何が一体正しいのか、「今」の傾向が本当に正しいのか、とこそ考える必要がある。大切なのは「多数」かどうかではなく、「正しい」かどうかだ。
 上でリンクを張った過去の記事を見てもらえば分かるのだが、私は積極的ではない、消極的な夫婦別姓容認派である。別姓でもいい、と言うよりは、同姓でなければならない根拠がない、と考える。同姓にすることによって実際に不利益を被っている人がいる以上、その人たちに配慮しなければならないという気持ちもある。
 夫婦は同姓でなければならないと考える人たちは、同姓であることが日本の伝統であり、同姓であってこそ家族の結びつきが強くなると考えているようだ。しかし、実際に、日本以外のほぼ全ての国が夫婦別姓を容認している、もしくは元々別姓であるわけで、それらの国が日本と比べて特別「家族」というものの維持に問題を抱えている、ということはない。人間関係というのは人格的結びつきであるべきで、形を合わせることで結びつきを維持しようというのは不健全である。姓が同じでなければ維持できないような家族は、どっちみち上手くいかないから、姓という縛りによって家族を維持するというような姑息なことは考えるべきではないのだ。これまた前回書いたとおり、そうしなければ家族の紐帯が維持できないとすれば、それは日本らしい「個の未熟」なのではないか。
 もしも今回の判決に文句があるなら、選択的夫婦別姓に反対する国会議員を次の選挙で選ばない、更には、最高裁判所判事の国民審査で、今回「合憲」に手を挙げた人たちに「×」を付ける。そうするしかないのだな。

 「夫婦同姓再考」とタイトルを付けながら、再考した結果、前回とよく似た話になってしまい申し訳ない。ただ、話が変わらないということは、それなりの理由があり、やはり正しいということだから、再確認にも価値はあるのである。