『たまらねぇ場所 築地魚河岸』



 石巻と仙台を電車で往復する間に、生田與克『たまらねぇ場所 築地魚河岸』(学研新書、2010年)を読んだ。面白かった。というより、私の最近の問題意識と重なり合うところは多いし、聞き書きらしき「語り口調」の面白さもあって、読んで痛快な気分になった。築地にあるマグロ専門の仲卸の親父が書いた築地魚市場ガイドであり、教育論であり、水産業・魚食論である。以前、宮大工の話でも書いたと思うが、机上の学問ではなく、ものを相手にしている人というのは、ものについても人間についても、本当に深く的確な洞察をするものだと改めて感心した。気に入ったところを少し抜き書きする。(ただし、この本の本当の魅力である現場の具体的な話は長くて引用できないので、妙に説教臭いところだけになってしまう。)

「美味い不味いに限らず、今の人々は何につけても自分で判断することが出来なくなっている。特に食べ物に関しては、テレビをはじめとした溢れる情報に左右され過ぎている。もっともっと自分が持っている感性に、素直になって良いんじゃないかと思う。」

「魚という商品は、値段、品質のみならず、入荷する商品自体が日々目まぐるしく変わってしまう、専門性の高いものだ。しかしあまりにも身近過ぎて、買っているほうも、売っているほうも本当に大切にしなければならないことに気がつかなくなったんじゃないだろうか。特に売っているほうは、商品を売るのと同時に「伝えなければいけないこと」を、誤解を恐れず、プロとして伝えなければならなかったのだ。そこにお客様第一主義という時流が起こり、目先の銭を追っかけるために、俺たちはどんどん流されていってしまった。そして消費者と魚のプロとの乖離が決定的になってしまったのが、セルフサービス式販売形態の普及だ。」

「どこの国でも家庭料理というものは、家の中で親から子へと繰り返し、しっかりと伝えられるものだ。そしてそれこそが、その国の文化であると俺は思う。(中略)しかし現在は全てにおいて経済が優先し、経済的に優位に立つことが、最大の目的になってしまっている。そして優位に立つために、文化の優先順位は下げられてしまっている。まして、家庭での食事という、目立たないが長い年月をけけて口伝されてきた文化などは、眼中に無いという勢いだ。」

 恥ずかしながら、私は築地の市場に行ったことがない。海外に行けば、観光地には目もくれず、市場に入り浸っていることが少なくないのに・・・である。もちろん、ここで言う海外の市場は、庶民的な小売店の集合体(関西の市場はほとんどこれ)だし、築地の市場は「競り」が行われる小売りの元締めみたいな場所で、性質がまったく違うのだから同列に論じることがおかしいかも知れない。では、競りの行われる市場には、本当はそちらの方が動きがあって面白そうであるにもかかわらず、なぜ足を向けないかというと、何となく、私のような素人が面白半分、冷やかしのような形で行ってよい場所には思われないからだ。石巻の魚市場でさえ、ひどく面白い場所で、競り場にもほとんど自由に入れると知っているにもかかわらず、私は行ったことがない。およそ気の抜けた時間帯に、生徒の実習に便乗して見に行ったことがあるだけだ。定置網だって、牡蠣だって、見に行くのは実習便乗か紹介があって、だ。

 さて、この本には、築地を見に来る観光客のマナーの問題も取り上げられている。あれは迷惑これは危険だと書いてきた後で、作者の友人が登場する。

 「俺の小学校の頃からの友人で、中年になった今でもとても仲の良いヤツがいる。ちなみにソイツは、一度も魚河岸に遊びに来たことはない。奥さんから聞いたことがあるのだが、「私がイクタさんに会いに、魚河岸に行きたいって言っても、絶対に許してくれないの。『あそこはプロの仕事場なんだよ。滅多なことで我々素人が邪魔しに行っちゃいけないよ』と言われているのよ」と言っていた。さすがは俺の親友だ。そんな固いこと言ってないで、いつでも遊びに来いよっ!と会う度に言っているが、いまだに来たことはない。今でもこういう奇特なヤツが日本にはいるんだよ。」

 ほう、もしかすると私も「奇特」の部類に入るようだ。私と「友人」が違うのは、内部の人間に直接「遊びに来いよっ」と言われたら、私なら喜んでほいほい出かけて行くという点だ。こんな本を読むと、築地にひどく魅力を感じることと、本当のプロの世界であることが分かり、益々畏れ多くて近づけなくなることとの間に挟まってしまう。やっぱり、伝家の宝刀=宮水の先生に頼んで、紹介してもらうか、連れて行ってもらうかしてみようかなぁ。