フィンランドの教育を考える(2)



 言うまでもなく、フィンランドの教育は2000年に行われたPISA(OECDにおける学習到達度調査)で、総合読解力第1位(日本は8位)となり注目を集めた。2003年のPISAでもフィンランドは1位で、この時、日本は14位に後退したため、なおさら強い注目を集めることになった。

 しかし、フィンランドが、学ぶということの当たり前の姿を追求した結果として1位になってしまったのに対して、日本では、「結果」ばかりにこだわり、「どうすればPISAで高い得点を得ることが出来るか」といった対策的な発想になってゆく。実際、PISA2003のショッキングな結果を受けて、当時の日本の文部科学大臣は、「『総合的な学習』の時間を見直す(廃止を検討する)」「授業時間数を増やす」「競争的雰囲気を強める」といった発言をしたと伝えられる。ところが、フィンランドは、全ての授業が「総合的な学習」の時間であると言ってもよいほどで、授業時数はOECDで最も少なく、競争は一切排除している。これらは、フィンランドと日本の教育に関する発想がいかに根底から異なっているかということを、非常によく示しているだろう。「学ぶ」ということがどういうことかも、「PISA」がどのような力を測ろうとしたかということも全く分かっていないと言ってもよい。これは大臣だけの問題ではないだろう。

世の中の思考方法というものは、大きく「動機」を尊重する考え方と、「結果」を尊重する考え方の二通りに分かれると私は思っている。ただし、これは全く等しい価値を持つ二通りの方法なのではない。「動機」を尊重すれば「理念」を考えないわけにはいかず、「理念」は物事を掘り下げて考える「哲学」によってのみ明らかにされる。一方、「結果」は利害打算と結び付くが故に「哲学」から遠い。つまり、「動機」を尊重する考え方の方がより本質的で、本質的な考え方は一見現実離れしているが、最終的には強い。フィンランドは「動機」に目を向け、日本は「結果」に振り回される。これでは、日本の教育が、「学ぶ」ということの本来のあり方に向って健全化することなどない。そうして生まれた「結果」が、人を幸せにしないのは当然なのである。

 日本は、いくらフィンランドと比べて劣っているとはいっても、2000年の参加31ヶ国、2003年の40ヶ国の中では、相当上位にいる。しかし、優れた学力が豊かな生活を作っているという実感はなく、勉強という苦しみに耐えているという実感ばかりが強い人は少なくないだろう。この姿は、「お金はあるけど幸せではない」と言われる状況とあまりにもよく似ている。学力比較で上位に入っていても、まだ上があることに不安と不満を感じ、どうすればもっと上位になれるかを考える。しかし、もっと上位になればどのような幸せが手に入るのか、分かっているわけでも考えているわけでもない。学力さえもっとあれば、もっと幸せになれるはずだと盲信しているに過ぎない。だから、学力があっても楽しくないし、創造的な仕事も出来ないということになる。大切なのは、学力が上がるかどうかではなく、どのような学力をどのような方法でつければ、どのような幸せが実現するのかという哲学である。そして、その前提として、人間とはどのような生き物かという哲学もまた重要なのである。(つづく)