フィンランドの教育を考える(1)



 先日、私は林竹二の『教育亡国』という本に感想を書く形で、教育のあり方について若干の思うところを書いた。しかし、それは林の物言いにカチンと来たことに対する反作用的な書き方になっているので、本意でないとは言えないが、いささかすっきりしないモヤモヤしたものが心の中に尾を引いていた。反作用でない形で、今私が学校のあり方について考えていることを整理しておこうかという気持ちを抱きながら、多事に紛れて実行できずにいた。

 その間に、ふと思い立って、フィンランドの教育についての本を何冊か読んだ。福田誠治『競争やめたら学力世界一 〜フィンランド教育の成功〜』(2006年、朝日新聞社)が圧倒的に秀逸で、後から思えばこれ1冊で十分だったと思う。

なぜ突然フィンランドだったかというと、フィンランドの歩んでいる道こそが、私の求めているものと重なり合うのではないか、と密かに思っていたからである。そして、改めてその通りだと思った。重要な点は二つある。

 1:学ぶことは内発的な行為であるということを、徹底的に大切にしていること。

 2:生まれ育った環境の差が、その後の人生の差にならないような形で「平等」を目指していること。

 私も日頃生徒相手に、そして自分自身の「学び」の問題としてよく意識するのは、学びの欲求がないところで、外から圧力をかけても、労多くして実り少ない結果にしかならないということである。これは全く当たり前なのであるが、学校はこの「当たり前」を尊重していない。入れば、学校のカリキュラムと評価規定があり、自ずからそれをクリアーしている生徒は問題ないにしても、対応できない生徒については、それに合うように外圧をかける。

 この点について、小学校のような基礎教育の場と、高校のような高等教育の場は違う。高校は学びの欲求がなければ入らなければ済む(実際には入らない自由はあまり保証されていないから問題なのだが・・・)。小学校は、そうはいかない。しかし、内発的な学びの欲求など、どのようなテーマに向けて、いつ発現するかなど見当がつかない。本当に内発性を尊重すれば、生徒はてんでバラバラなことを、全く異なるペースで行うことになる。もちろん、一斉に試験を実施するなど出来るわけがない。従って、従来の学校の枠組みを「学校」と認める日本人は、そのようなやり方を理解も実行も出来ない。だが、フィンランドでは、実際に学校をそのような場にしている。日本では「教育」の場である学校が、フィンランドでは「支援」の場なのである。

 では、フィンランドの学校に試験はないのか?少なくとも、義務教育が終了する16歳まで、試験はないのである。これは、学習の進捗状況を「試験」という方法で確認しないというだけでなく、人と何かを比べるということ、競争するということも断固として否定しているということを示している。ひとクラスの生徒数が少ないので、先生は、その子の学習状況をリアルタイムで評価し、学習を進めるための助言を行うことができる。最終的には成績は付くが、それに対する関心は低く、しかも学校や教師のあり方を問題にすることなく、「自己責任」の意識が強い。

 最終的には成績がつき、大学も選抜があるにもかかわらず、なぜ人々がそれに対して執着せず、成績を上げるための「対策」を講じようとしないのかというと、それはまず社会の構造が非常にしなやかだからであろう。15歳とか18歳とかいう固定された時期に、何かのハードルを越えなければ、そこから先の人生で落伍者の道を歩むしかない、といった硬直性がない。一生は一生をかけて決まると言うべきか、自分が学びたいと思った時に、いつでも、どこでも、自分が学びたいように学ぶことが出来る。就職についても同様だ。

 次に、人がみな、自己肯定感を持っているということが重要だ。自己肯定感をしっかりと持っていれば、見栄を張るということが必要なくなる。自分の能力と嗜好に合わせて、無理のない進路選択が出来るであろう。日本で、生徒が少しでも偏差値の高い高校、大学に入ろうというのは、そこで失敗すると、それが人生全体に影響を及ぼすという硬直した社会の反映であるだけでなく、そうすることによってしか自分の価値を確認できないという、貧しい自己肯定感の表れなのである。これは、人間が内側から支えられているか、外側から支えられているかという問題であると言ってもよい。

 学ぶことは内発的な行為である。このあまりにも当たり前なことを徹底させた時、知識は偏り、進度もバラバラになるが、真の問題意識に基づく知識と、それをどのように獲得していくかという学習のプロセス、そしてそれを支える柔軟な思考法が身に付くことになる。人と競い合いながら、優越性を確保するというモチベーションに支えられた学習とは純粋さが違い、学習の意欲や喜びの強さも違うだろう。同時に、劣等性の自覚によって学習意欲を減衰させていくということも起こらず、従って、社会の格差も広がらない。ハードルを越えたら、あとは勉強などしたくもないということも起こらず、人は生涯にわたって学び、伸び続けていくことになる。

 このことは、2に直結する。また、この実質的平等を保証するために、教育費の無償化だけではなく、非常に手厚い人的支援をしている。「できる子」は出来るのだから手を貸す必要はないと言って、「できない子」にこそ手をかける。それによって、もともとあった素質や家庭環境の差を解消することこそが、フィンランドの平等である。素質や家庭環境に関係なく、同じ条件で同じことを教えることが平等なのではない。それでこそ、格差は広がらず、格差に基づく社会問題も発生しない。事前に手間暇をかけることが、結果として社会を平和で安定したものにすること、格差が開いてしまった後でフォローするよりもその方が社会にとってもその人にとってもいいということを、フィンランドの人たちは知っているのである。学力に関する国際比較で、フィンランドが優秀であるのは、底辺が存在しないからである。(つづく)