高校選びの憂鬱



 先日、県内の数名の高校教員と酒を飲む機会があった。そこにいた人たちの子どもが、保育所から中学生だったこともあって、自分の子どもをどの高校に通わせたいか、という話になった。

 たいへん残念なことに、私も含めて、積極的に県立高校に入れたいと思っている人はいなかった。お金と住んでいる場所との関係で「仕方ないから○○(=県立高校名)に入れようか」と言う人が、1人いただけである。これは非常に不幸なことだ。一般の県民から見れば、お前らが自分の子どもを入れたい学校を作れなくてどうするのだ!?とお叱りの言葉でもいただきそうである。

 もちろん、私たちだって、出来るものならそうしたいのだ。しかし、自分たち以外の責任で、自分たちの子どもを入れたい学校が作れないから、上のような話になるのである。私もできるだけ「グチ」にならないように、多少の自制はしながら、今の公立高校が、いかに強い管理統制の下にあって、意味の見出し難いような義務的な仕事を、形式主義的に外見上やったことにするためだけに汲々としているか、ということは書いてきた。もっとも、教育委員会(実質的にはその事務局たる教育庁)や文科省がすべて悪い、と言う気もない。現場の人間の中にも、考え方において同様のものが根強く存在することは、多くの場面でこれまた強く感じることだし、そもそも、教育委員会文科省は県民・国民に支えられて存在しているからである。その場にいた教員達の中にも、そのような現在の公立高校を積極的に現在の姿で支えていこうと立ち回っている人が、いなかったとは言えない。しかし、いざ自分の子どもを通わせるとしたら?という視点で見た時に、突如、公立高校はどうしようもなく可能性のない存在に見えるらしかった。

 かく言う私も、申し訳ないことに、我が家でよく言っているのは、現在小学校2年生の娘を、どこか外国の高校に入れたい、ということだ。北欧か、ドイツ(知人がいる)か、イギリスがいいなぁ、と思う。もちろん、外国の高校を卒業することで「箔をつける」などというつもりは毛頭無い。仮にイギリスだったとしても、パブリックスクール(女子のパブリックスクールってそもそもあるのかな?)に入れたいという野心があるわけでもない。注入型の授業と部活、更には進路指導・生活指導でがんじがらめにされた日本の高校にいるよりは、のびのびとした生活が出来そうだ、内面が確立されないまま、日本的なもたれ合いと過干渉の風土に身を置くよりは、「個」が確立した人間と文化の中に身を置いた方が、長期にわたって持続的に成長できる人間になれそうだ、という思いがあるばかりである。下の息子についても同様なのだが、男子については、日本にも、大都市の一部の私立に、学校が過剰な指導をせず、生徒同士が勝手に刺激し合いながら成長できそうな学校があるので、そういう私立でもいいなぁ、と思う。もっとも、そのような学校は我が家のぼんくらには敷居が高すぎるようだから、やっぱり、ヨーロッパの田舎の名もなき学校かなぁ?

 当たり前だが、幼い娘は外国の高校へ行くのは嫌だと言っている。娘の高校入学まであと7年弱。偏屈な親ばかは、あれこれと悩むことになるのだろう。