頭髪指導の困難(1)

 大阪府下の高校における茶髪指導をめぐって、メディアで様々な意見が飛び交っている。一昨日は、私が毎週楽しみに読んでいる「松尾貴史のちょっと違和感」(毎日新聞日曜版→こちら)でも、この問題が取り上げられた。頭髪指導を「ハラスメント」だとしている。
 生まれつき茶色い髪を黒く染めるよう強制(指導?)され、精神的苦痛を受けたとして訴訟を起こした、というものだ。その学校では、生まれつきであると親が訴えてもダメ。学校は金髪の外国人でも染めさせる、と言い、少し髪が伸びるたびに染めることを強要され続け、ついに不登校に陥った、ということだ。
 私が今までに勤務した4つの学校でも、基本的に茶髪は禁止されていた。仙台一高だけは、そんな規則はあって無きがごとしだった。地毛まで染めろと強制していた学校はなかった。しかし、茶髪が地毛であることを親が証明する念書や、写真の提出を求めていたということがなかったか?というと、あまり自信を持って「なかった」とは言えない。記憶が定かでない。
 ところが、最近の親にはなかなか怪しい人がいて、毛の生え際を見ると、明らかに地毛は黒なのに、「子どもは生まれつき茶髪だ」などと言ったりするものだから、学校と親との関係がぎくしゃくして不愉快だった、などという経験はある。
 それはともかく、茶髪を学校が染めさせることについての私の考えは二つある。条件によって変わる、ということである。
 まず、最もよいのは、身なりについての指導を一切しないことだ。ただし、これを実行するためには、学校が勉学の場であることを徹底できる状態を作らなければならない。これが条件だ。
 つまり、高校の場合、勉強がしたいから入学しているはずなのに、入った瞬間から全然そんな気持ちが感じられないという生徒、入学後、徐々にそのようになっていく生徒というのがいる。それらの中には、勉学には真面目に取り組まなくても、部活動に一生懸命になる生徒というのが一定数いる。しかし、それはあくまでも一部である。勉学に目が向いていない生徒は、たいてい部活にも目が向かない。学校に目が向いていない、という状態だ。
 残念ながら、日本の高校というのは、中学時代の偏差値によって階層化されていて、下の方の学校ほど、そのような生徒が多く含まれている、という事実がある。そして、そのような学校で、学校に目を向けていない生徒が何に目を向けるかといえば、異性であり、バイクであり、茶髪を含むファッションなのである。階層上位の学校の生徒というのは、その点、学校に目が向いている上、悪いことをする場合でもばれないようにする術を知っているので、トラブルが起こりにくい。また、変なことをする生徒がいたとしても、それは少数派であって、まわりの生徒がそれを真似をしようとせず、横へ向かって拡大していかない。だから、問題視する必要がない。
 下層の学校では、学校の秩序を保つために、なんとかして生徒の目を学校に向けようという努力が為されている。魅力ある授業を行うことが第一だが、それで問題解決というのは残念ながら机上の空論、理想論というものである。そして、そのための一つとして、「形から入る」という指導が行われるわけだ。頭の中に理想の高校像を作り上げて、それを基準に「形から入る」を批判してはいけない。学校に目が向いていない生徒がわんさかいる学校というのは、それはそれは大変なのである。一人に甘い顔をし、例外を認めれば、あっという間にそれが蔓延する。そして学校が学校でなくなってゆく。教員はそのことに戦々恐々としている。どこかの学校には「建設は死闘。崩壊は一瞬」(だったかな?)なる教員内部の標語まである、と聞いたことがある。もちろん、その場合の「建設」は、身なりを始めとする生活指導だ。
 私が、「学校が勉学の場であることを徹底できる状態」という場合、そのような始めから勉強する気のない生徒には、退学でも何でも命じられる状況があることが条件となる。もちろん、落第もありだ。部活だってない方がいい。その分、家庭が責任を持ってしつけをする、校外に様々なサークル活動の場がある、ということも必要になるだろう。
 とにかく、日本の学校というのは何でもかんでも丸抱えにし、責任を背負い込んで身動きが取れなくなっているのであって、茶髪指導のようなお節介も、根はそこにあるのだが、なにしろ日本文化そのものなので、容易に変化させることは出来ない。従って、学校は勉学の場であるという考えを徹底させ、身なりの指導なんかはしない、というのは、少なくとも中層以下の学校では極めて困難である。(続く)