「考え方」というものがある

 今日は「教育課程研究会」という県教育委員会主催の勉強会があって(→この会の性質)、多賀城東北歴史博物館という所に行っていた。外は暑いのに、効きすぎた空調に寒い思いをしながら、指導主事の「御講話」を拝聴し、他校教員とまとまりのない意見交換(雑談)をして来た。話は期せずして一昨日の続きめいてくる。
 「御講話」の冒頭、平成34年度から高校で実施される次の学習指導要領改訂の「ねらいと背景」が提示された。配付された資料には次のように書かれている。


グローバル化や情報化、技術革新が進み、変化が激しく将来の予測が困難
・自立した人間として自らの人生を主体的に切り拓き、他者と協働しながらよりよい社会を創造していくことができる力が必要
・「何を知っているか」に加え、「知っていることをどう使うか」「どのように社会や世界と関わっていくか」が問われる
・必要な力をどのように育んでいくか、そのための学校教育の在り方とは


 「御講話」によって補足しながらまとめると、激しい世の中の変化に対応し、よりよい社会を作っていけるようにするため、国語という教科でどのような実践をすべきか考え、示すのが、次の学習指導要領だ、ということである。念のため確認しておくが、お上によれば、学校教育や教科指導で為すべきことを「考え」るのは文科省であって、個々の教員ではない。個々の教員は文科省の見解を従順に受け入れ、文科省の意図を「考え」ながら具体化することだけが求められている。
 私はもともと、時代の変化とは無関係な「不易」の部分にこそ価値がある、時代の変化に対応することなど、わざわざ学校で教える必要はない、現実への対応は各自でやればいい、と思っている。そもそも、時代が急激に変化していく時に、その変化の正体を見極め、単に保身的な対応をするだけでなく、場合によっては変化に棹を差すという判断、それを可能にする世の中のあり方や正しさについての思考は、どの教科でどのように指導されるべきなのだろうか?「よりよい社会」を作ろうとすることは大切だが、「よりよい社会」がどのようなものであるかについては、ただ自分で考えろではダメで、どのような考え方をすれば、本当の意味で「よりよい社会」像を見つけ出すことが出来るのか、その考え方について学校で意識的な教育は為されている(為されるようになる)のだろうか?どうも、学習指導要領はそんなことは想定しておらず、欲望に従い、それを遂げさせることは無条件に善であるという現在の発想に基づいて、社会の変化とそれへの対応を考えようとしているように見える。これは浅はかだ。野放しにしておいたら、各自ではなかなかしないことを、無理矢理にやらせ、価値あるものを見出してゆかせることこそ教育だ。生徒よりも教師、教師よりも教育委員会教育委員会よりも文科省・・・より上位に在る者ほど、そのような哲学的思考が出来て、それを下に伝える努力をしなければならないのに、文科省にその気配が見えないのは残念だ。
 激動の時代だからこそ、本当に大切なものが何かを追求することがますます価値を持つ。やはり必要なのは、「道徳」ではなく「哲学」という教科の創設であろう。