教育改革に関する複雑と単純

 土曜日の午後は、仙台に名古屋大学名誉教授・現花園大学教授・植田健男氏の講演を聴きに行っていた。演題は「『21世紀教育改革』の行方と私たちの課題~コロナ禍以降の教育DXの展開」。
 約2時間に及んだお話は決して分かりやすくなかったのだが、後から考えてみると、教育現場をめぐる変化があまりにも早すぎて、それらの変化を背景とともに説明しようとすれば盛りだくさんとなり、分かりにくくもならざるをえない、ということのようだ。
 私は、昨今の教師に関する働き方改革の話との関連で、学校が多忙であることの根っこに、学習指導要領が10年に1度必ず改定されるという問題がある、とよく言う(→例えばこちら)。先生は講演の冒頭で、教育に関する法律の改正が多すぎるということを指摘した上で、「変化が早すぎて本を書けない」とおっしゃった。10年に一度の学習指導要領改訂だけでも大変なのに、確かに、その途中で更に多くの変更が降ってくる。更に、10年に一度の学習指導要領の改訂では、時代の変化に対応できない、という文科省の思いも・・・。学習指導要領の改訂だけでも十二分に大きな負担であり、問題だと考えていた私にとっては、正にやりきれない閉塞感だ。現実は私の認識の上を行く、ということ。
 一方で、文科省も植田先生も決定的に語らないのは、本来教育はどうあるべきかというひどく基本的な問題だ。それを確認し、それとの比較で現実がどのようにずれているのか、という議論の仕方をしないために、話が面倒なばかりですっきりしないということに気付いたのである。
 思うに、小中高で行うような勉強というのは、正に「読み・書き・そろばん」であり、時代がいくら大きく変わっても、絶対に変わることのない至って単純、基本的なものである。そんな基本的なことがコロコロ変わる方がおかしい。「読み・書き・そろばん」を超えた人間の生き方に関わる本質的な問題も、時代によって変化することなんか何もない。このことは、古典を読んでいれば絶対に気がつくことだ。そして、単純、基本的な内容だからこそ、それらを教えるためには、制度ではなく、教師一人一人の工夫と力量と以外に頼るものがないのである。
 このことは、世の中が分かりにくくなる時の一般的な姿を表しているのではないだろうか。すなわち、人間というのは単純なものであり、日々の生活も生涯も複雑になどなりようがないのに、原点を見失って、原点からずれた姿を元に考えると、原点から更に遠ざかって何が本当なのかが分からなくなり、複雑怪奇で分かりにくい様相を示すようになる(→参考記事=この記事の「その三」参照)。
 やはり、本当に必要なのは、「学ぶ」とか「教育」とかいった作業は本来どうあるべきか、という原点に関わる思考なのだ。何かを変える時にも、常にそのことを意識していなければ、何のために変えるかすら分からなくなってしまう。もっとも、政治家や官僚は、自分たちの存在感を示すために「変える」ことそのものが目的なわけだから、原点だの理念だのなんてどうでもいいのだろうけど・・・。