立派な「ご指導」よりも「自由」を子どもに!(続)

 先日、高校の新しい学習指導要領改訂案について一文を書いた。大きな問題に対して、ほとんど瞬間的に見解をまとめるのはなかなか難儀だったので、自分でもすっきりしない。そこで、一番下に「(言いたいことを伝え切れていない。いずれ補足を書かなければならなくなるだろう。)」とぶら下げた。
 主旨は、学校という管理された場所で主体的思考力の向上を目指しても無理、それなら、生徒に出来るだけ自由な時間を豊かに与える方がいい、文科省も、主体的思考力養成の指導をするくらいなら、教師の責任を授業に限定し、それを世間にアピールすることで、教師が生徒を放置できる態勢作りをした方がいい、というようなことだ。これは学校だけでなく、保護者や地域の大人についても同じことが言える。
 今思っても、まったくそのとおり。では、私が書き切れていないと感じていたこととは、一体何なのだろうか?2〜3日が経って少し分かってきたので、補足しておくことにする。
 ひとつは、試験についての考え方だ。私は先日、試験が問えるのは固定的な知識だけだ、と書いた。これは必ずしも正しくない。実際私は以前、現行の入試制度でも、きちんとした選抜は可能だということを書いている(→こちら)。司法試験の短答式試験を見てみると、マークシートでもこれだけ思考力が必要な問題は作れるものなのだなぁ、と驚く。基礎的な知識を徹底的に自由自在に使いこなせて初めて解ける問題、それは作成可能だ。ただし、そのためには、高度な作問能力が必要とされる。主体的な思考力を育てる授業以上に難しいのではないか?しかも、それは応用問題限定であり、授業を受けた上での確認テストだと、やはりそうはいくまい。
 そんな不可能に近いことを目指すなら、いっそ、試験というのは固定的な知識しか問えないと割り切り、試験の成績だけが全てではないという価値観を養う方がいいように思う。どうだろう?
 もうひとつは、自由で豊かな時間を持っていた場合、今の子どもたちは何をするだろうか?という問題だ。その時間の使い方によって、本当に主体的思考が養われるかどうか、ということである。
 世の中はあまりにも便利で豊かだ。主体性がなくても、知恵を働かせ創意工夫をしなくても、時間をつぶすネタには困らない。インターネットを使ってくだらないユーチューブの映像を見るにしても、ピコピコとゲームに没頭するにしても、である。結局、自由になった若者は面倒を避け、それらのような手軽な楽しみにうつつを抜かすことになるのではないか?私の感覚だと、最初のうちはそれらを楽しいと思えても、1ヶ月、半年、更に1年と経つうちに、だんだんと空しさが募ってきて、それなりの工夫をするようになるものだが、最近増えているという引きこもりの話を聞いたり、現実に、身のまわりに見えているスマホやゲーム中毒の青少年を見るに付けても、果たしてどこまで信用していいのか?と疑心暗鬼にならざるを得ない。
 こうなると、商業主義と、自分の目先の利益だけを追い求める感性とが、立派な主権者となるに必要な思考力をスポイルしていく。学校がお釈迦様の手のひらで、それ以外の場所が資本主義の修羅場だとすれば、いったいどうすればいいのか?単に主体的な思考力を磨く、というだけでなく、目先の利益を超えた価値観を持つ、ということまで学校教育の守備範囲に含めるしかないのか?
 しかし、国を動かしている人たちはそんな問題意識など微塵も持っていないからこそ、若者の携帯電話も野放し、大人のパチンコも野放し、もうかるんだったらカジノも作っちゃえ、となるわけだし、教員も試験(定期考査や就職・進学)でしか勉強への動機付けが出来ず、しかもそのことに問題を感じていない人が非常に多い中、学習指導要領ひとつで主体的思考力の養成が出来るようになるとは思えない。結局のところ、人間の欲望を原点とした社会全体のゆがみの中にいるわけだから、何かひとつの特効薬でどうにかなるものではないのだな。
 むしろ、そんな中で、政府が学習指導要領に主体的思考力を書き込むだけでも立派とすべきなのか?いやいや、アクセルを踏みながらブレーキも踏む、というようなやり方は、為政者の得意とするところ。結局、学習指導要領でもそのとおり、ということが、主体的思考力と同時に愛国心が書かれたということなのかも・・・。