そういえば参院選があったなぁ・・・(1)

 この間にあった大きな出来事と言えば、参議院選だ。とは言え、まだ僅か半月ほどしかたたないのに、「そういえば参院選あったなぁ」という程度の感覚でしか思い出されてこないのはなぜだろう?
 18才選挙権だ、野党統一候補だ、と話題の多い選挙であったが、ふたを開けてみれば、マスコミの予想通り、自民党の圧勝。私の記憶がぼやけているのは、この結果に白けているからかも知れない。私はもはや民意に期待などしておらず、いつぞやの総選挙の時に書いたとおり、選挙や民主主義なんて、みんなで決めたことだから仕方がない、と諦めるためのシステムだと思っているのだから、今更ショックなんて受けていないはずなのだが、人間の持つ自己防御システムによって、結果を心が正面から受け止めないように規制しているようにも思う。
 と書けば、そういう諦めや逃避こそが世の中を悪くするのだ、と批判されそうだ。まあ、そう言わずに・・・。思ったことを書き並べておこう。ただの「記念」みたいなものである。

自民党に対抗するためには、野党統一候補を立てることはやむを得ない策だった。しかし、それが選挙のための野合だという批判は、ある程度正しい。野党統一候補ばかりが勝ったとしたら、政治的混乱が起こってくるのは目に見えていた。それでも、なぜそうせざるを得ないのか、という点についての説明は不十分だった。だから、単に選挙で勝つためでしょ?という誤解を生んだ。憲法を守るという一事は、他の何よりも重いのだ、ということを、理由とともにもっと訴えて欲しかった。だが、その野党内でも、憲法意識は必ずしも一致していない。だからこそ、説明には力が無かったわけだ。
・首相、いや自民党総裁の腹の内には改憲願望が沸き立っているはずだが、経済政策、アベノミクスの積極的推進を争点とした。とにもかくにも、その主張は支持された。成長ではなく分配の工夫をという声は、野党側から聞こえたが、成長そのものを否定するのは耳にしなかった。私は、以前から、経済が成長を続けるなんてあり得ない、と言い続けているので、そのような野党の論理を甘いと感じた。成長から分配に発想を移しても、庶民の取り分が「成長」するというだけなら、自民党の発想と根本において差はないな、と思う。どうしても、より多くを持つこと、人間の欲望に従い続けることを「善」とする価値観を変えることは、どうしても必要だ。民意のご機嫌を損ねることを恐れて、曖昧な議論をすれば、それは自信のなさと見られる。それもまた、野党が負けた理由のひとつではなかったか?一方で、「力強い経済の成長を取り戻す」という暴論には曖昧さがなかった。それが支持されるのを見ながら、歴史に思いを馳せて、私は、願望があまりにも強くなると、どんなに無謀で奇想天外なことでも、実現可能な夢に見え変わるのだな、ということを思った。それは多分、人間という生き物の習性なのだ。
民進党の凋落ぶりは無残である。劇場型政治では、人気の起伏が大きくなる、ということでもあるだろうが、もう一つは、やはり、前回政権運営に失敗したときの事後処理のまずさ、があるような気がする。なぜ政権運営に失敗したのか、失敗したながらもそこで何を学んだのか、という総括を真面目にせず、したがって、その失敗が、健全な二大政党制(←私はこれがいいと思っているわけでもないが・・・)に進んでいくために必要な、過渡的現象(成長過程)だったのだ、と有権者に思わせることが出来なかった。その結果として、「ただダメなだけの人たち」になってしまった。そのことによって日本が失ったものは大きい。(続く)