『Nature』の査読、またはアシュケナージという老人



 おかげさまで、ようやく復調。12日からは通常勤務に戻った。

 まずは、理研の論文疑惑について。もう世の中でさんざんいろいろなことが言われているが、私はSTAP細胞の開発自体はとりあえず半分以上信じている。ウソをついても、再現実験をすれば簡単にばれるに決まっていて、ウソをつくメリットが何も思い浮かばないからだ。

 メディアの報道で全然耳にしないので不思議に思うのは、『Nature』によって行われた査読のことである。STAP細胞開発第一報の1月30日付の新聞は、今、手元に『河北新報』しかないが、それによれば、小保方晴子氏は最初の投稿(2008年?)で「何万年の細胞生物学の歴史を愚弄している」と掲載拒否されてから、更に約5年間の研究を重ね、2013年3月に2度目の投稿をした。それから9ヶ月間、小保方氏は追加の実験に追われながら、査読者の質問にひとつひとつ答えたことになっている。この手の論文雑誌で、査読に9ヶ月間をかけるのが長いのかどうか知らないが、9ヶ月間、その確実性を問い詰めていって掲載に踏み切ったとしたら、『Nature』にはそれなりの責任も発生するはずである。その間に、「簡単にできる」ことがSTAP細胞の最大の「売り」であるにもかかわらず、再現実験が査読関係者によって行われなかったというのも信じ難い。つまり、『Nature』と小保方氏との関係(やりとり)に関する報道が正しいとしたら、『Nature』は、執筆者が論文の取り下げを申し出るかどうか静観しているだけ、という受け身の姿勢が許されるわけはなく、『Nature』が本当にそういう姿勢を取っているとすれば、そもそも、過去6年間の『Nature』と小保方氏の関係に関する報道自体が間違いなのではないか、という気がしてくる。だが、『Nature』が投稿した論文を、そう簡単に掲載してくれたりしないこともまた確かだし、『Nature』の耳に入ればすぐにばれるウソをあえてつくことも考えにくい。私には何が正しいのか見当が付かない。

 話はすっかり変わる。

 昨夜は、仙台でアシュケナージ父子のデュオ・リサイタルに行った。ウラディーミル・アシュケナージという人は、今更言うまでもなく、20世紀後半を代表するピアニストであり、1970年代くらいから指揮者に転向すると、その分野でもたくさんの仕事をしたスーパー音楽家である。ピアニストとしての異常なばかりのレパートリーの広さ、膨大な量の録音、更には指揮者としての華々しい経歴・・・、一人の人間が生涯にこれほど多くの仕事ができるものなのかと感心することにおいて、バーンスタインにも劣るものではない。2004〜7年、NHK交響楽団音楽監督を務めていたことなどあって、日本のステージには相当数立っている人だが、田舎暮らしの私は、1982年1月20日に、彼がフィルハーモニア管弦楽団と仙台に来た時の演奏会に行ったことがあるだけだ。ストラヴィンスキー火の鳥」、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番を弾き振りし、最後はベートーヴェン「田園」だった。

 アシュケナージの演奏は、とても安定して質が高く、「はずれ」がない代わりに、あまりにも整いすぎていて面白味に欠ける、というのが私の評価なのだが、その時のモーツァルトはすばらしかった。最初の一音で、音の美しさに鳥肌が立った。演奏には一切ほころびがない。この時に関して言えば、それが「整いすぎていて面白味に欠ける」ということはなく、モーツァルト晩年の、円熟した、美しい中にほのかに寂しさを漂わせる音楽を描ききって秀逸だった。

 特に今世紀に入ってからは、指揮台に立つことばかりが多く、ピアニストとしての活動は著しく縮小されているらしいが、アシュケナージはもう一度見てみたい、できればそのピアノを聴いてみたいと思っていた。もちろん、ソロのリサイタルの方がいいに決まっていて、息子ヴォフカを連れてのデュオというのは少し残念だったが、ま、「瓢箪から駒」ということもあるし、息子にも多少の期待はしながら、のこのこ仙台まで行ったのである。

 プログラムは、シューベルトハンガリー風ディベルティメント」、ブラームスハイドンの主題による変奏曲」、ムソルグスキー「禿げ山の一夜」、ストラヴィンスキー春の祭典」であった。一見して分かるとおり、シューベルトを除けば、今は一般にオーケストラで演奏される曲ばかりで、ムソルグスキーはヴォフカによる編曲だった。

 県民会館の大ホールに、聴衆は4割くらい。演奏はあまり特別なものではなかった。そこそこの演奏ではあったが、チケットの値段(4桁後半)を考えるとコストパフォーマンスは悪い。ウラディーミルとヴォフカの音楽の質を聴き分けて言葉にすることは、私にはできない。一番よかったのは幸いにして「春の祭典」であった。

 先月4日、ファジル・サイがピアノで弾いた「春の祭典」(一人による多重録音)を聴いてがっかりした話を書いた。それに比べると昨日の「春の祭典」の方がよほど面白かった。ライブだったということもあるだろうし、二人の人間が、呼吸を合わせながら、半ば掛け合うようにこの難曲を弾くということからくる緊張感が、音楽を密度の高いものにしたということもあっただろう。

 問題だったのは「譜めくり」で、このタイミングにいろいろ問題があって、ひやりとする瞬間がたくさんあった。何も問題がなくてあたり前の、いわば音楽以前の作業である。安心して音楽を聴くための要素として、これはもっと大切にして欲しいと思った。なお、後半のプログラムにおいて、ウラディーミルは従来型の紙の楽譜、ヴォフカはデジタル端末を使っていた。世代の違いを象徴しているようで面白くもあったが、譜めくりにハラハラするリスクを減らせるのなら、デジタル端末も悪くない、と思った。

 終演後、当日販売されたCDへのサイン会が行われた。私は買っていないし、サインを欲しいという気もなかったが、ウラディーミルをもっと間近で見てみたいと思ったので、見物していた。ざっと見た感じ200人以上の人がサインを求めて列を作る中、15分以上経ってから、二人は現れた。ウラディーミルは、にこりともせず、無表情にサインを始めた。ホールの奥の席で見ていた時と違い、髪の毛の量も非常に少ない。ひどく不似合いな、商売じみた行為を強いられていたからなのかも知れないが、20世紀後半を代表する音楽の巨匠というオーラもなく、なんだか疲れ切った老人に見えた。ひたすらサインをするために手を動かし続ける老人の姿は、痛々しくさえあった。76歳