先日、清岡卓行「手の変幻」がいつまでも教科書に載っているのは問題だ、というようなことを書いた。以前から多くの教科書に載っていて、今回の新教育課程でも生き残った教材の一つに山崎正和「水の東西」がある。これまた私から見れば奇っ怪な選択だ。どうしてこの文章が生き残るのだろう?
山崎は、この文章の中で、日本と西洋の水の扱い方の違いを元に、それぞれの水についての感覚、更には自然と人間との関わり方の違いといったものを指摘している。山崎によれば、日本人の水に対する感性や思想を象徴するのは鹿おどし、西洋では噴水である。西洋で水が造形の対象であったのに対して、日本では、水が自然に流れる姿を美しいと感じた。更に言えば、日本人は「形なきもの」を恐れない心を持つことによって、水を直接見るのではなく、何かによってその流れが感じられればよいのだ、と言う。鹿おどしが日本人の水に対する感性を象徴するというゆえんである。
この文章は、一般に対比構造を理解するのによい教材だと言われている。日本人の水に対する感性の特徴を明らかにするために、対比的に西洋を持ち出しているからである。しかし、対比構造の文章など世の中には掃いて捨てるほどたくさんある。「水の東西」が対比の使用において特別に優れているということはない。
そもそも、本当に鹿おどしと噴水が、東西の水に対する感性を象徴するかどうかも分からない。特に鹿おどしについては意見が分かれると思う。最後の段落で、山崎は「もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないといえる」と書く。「だとしたら」という仮定形には、本当かどうかは分かりませんよ、という意味が含まれている。しかし、いろいろな可能性が提示されているならともかく、それだけしか書かれていなければ、読者はそれを一つの仮定としてではなく、事実として読まざるを得ない。ここは、山崎が、なんとか鹿おどしを日本人の水に対する感性を象徴するものに仕立てようと、強引にこじつけている部分だ。論理の積み重ねによって鹿おどしをそのように位置づけるのではなく、鹿おどしへ向けて論理を合わせようとしているのだ。清岡の極めて感情的な強引さととてもよく似ている。山崎の文章には、清岡のような嫌らしい自己陶酔感が少ない。その分だけ、ほんの少しマシだな、と思うだけだ。
なぜこの作品がいつまでも教科書に載っているかというと、自然と対峙し、それを力尽くで改変しようとしてきた西洋に対して、「ありのままの自然を尊重する日本人」という存在が、事実かどうかとは関係なく、日本人自身にとってのお気に入りの日本人像だからではないか?お気に入りであることと、日本人がそんな人たちであるということ、もしくはそんな日本人を目指すということはまったく別だ。
私は最近、日に日にそんな伝統的日本人像に反感を感じている。身の回りを見ていれば、文明にべったりと依存し、何のためらいもなく無制限に石油を燃やし、自然を破壊しながら世の中を思いのままのものにしていこうという日本人の姿ばかりが見える。自然の流れに身を任せ、自然を尊重しながら共存しようとする日本人はどこにもいない。あるいは、そういう人はいるかも知れないが、西洋にも同様に、同じ比率でそのような人はいるに違いない。つまり、山崎が描くような日本人の性質は、本当の意味で日本人の国民性ではない。自然環境が穏やかで、なおかつ自然を改変する技術を持たなかったから、自然と共存してきただけの話である。
にもかかわらず、日本文化や国民性を語るとなると、江戸時代以前の文物や風俗を根拠として、山崎のような日本文化論を述べる人は、今でも少なくないように思う。今私が書いてきたように、それを批判的に読むことも大切だが、それがあまりにも強固なステレオタイプであるだけに、むしろ教科書はそれに対する批判をこそ採録すべきである。知識も文化や国民性に関する問題意識もなく、批判的な考え方をほとんど教えられてきていない高校生に、授業で「水の東西」を読んで考えさせるよりは、そんな日本人批判の文章を読ませる方が、生徒の頭を揺さぶる事になるはずである。
私は、教科書の編集者が、批判的に読むことを求めて「水の東西」を採録したとはまったく思わない。対比構造を読み解く練習、というのも最重要ではない。山崎の日本人観に教科書の編集者が憧れを感じていて、もしくはそれを「答え」と誤解していて、それを生徒に押しつけようとしているように見える。この作品の存在もまた、昨今の国語科教科書の質の低下を象徴しているようだ。