使わないともったいない

 先週末は伊勢へ行っていたので、牧山に走りに行けなかった。今日は少し蒸し暑いが、天気も上々だったので、午後から2週間ぶりに牧山Run。珍しく、30人くらいの団体さんに会った。おかげで蜘蛛の巣にも引っかからず、快適な山走りができた。16時15分頃に帰宅すると、湿度がずいぶん下がったらしく、海が真っ青に見えていた。

 ところで、私の勤務先の高校では、教室の4隅、天井際に扇風機が付いている。これは甚だ迷惑。扇風機が回っていると、授業をしていてとても疲れる。例えば、私の声量が5だとしよう。扇風機が2の音を出したとすると、私は7の声量で話さなければならなくなるらしいのだ。つまり、5というのは静かな中でであるが、そこに2の騒音が加わった場合、その騒音を基準として5の声を出さなければ生徒にとって聞き取りにくいということを本能的に感知し、自然と声が7になる、ということである。
 扇風機がなければ頭がクラクラするほど暑いならともなく、最近の石巻なんて、ほとんど暑さを感じない状態である。このところ湿度が高いので、動くとすぐに汗をかくのだが、じっとしている限りは肌寒いことさえ多い。ところが、教室に行くと、必ず扇風機が回っている。私が「止めたら死ぬっていう人いる?」と尋ねると、生徒は「死ぬ、死ぬ」と言うのだが、私は頓着せずに扇風機を止めてしまう。だいたい、本当に死ぬほど暑ければ、今やエアコンが作動するのだから、中間段階として扇風機など必要ないのだ。
 私がスイッチを切る時の典型的な会話を、少し復元してみよう。

「扇風機回っていると本当に疲れる。だけど、そもそもこんなに涼しいのに、無駄な電気使う必要ないだろ?」・・・プチ(スイッチを切った音)
「えーっ!せっかく扇風機あるのに、使わないともったいないよ。」
「え?扇風機回すのには電気が必要なんだから、使った方がもったいないよ。これだけ地球環境が悪化しているんだから、余計なエネルギーは使っちゃダメでしょ?」
「そんなこと知らねっちゃ。」(→参考記事

 私は、生徒の口から必ず出てくる「あるものは使わないともったいない」という言葉に驚愕するのである。ははぁ、そういう発想だとスマホも自動車も飛行機も、そして原発もAIも核兵器も、作り出されてしまった以上は「使わずにいられない」どころか、「使わないともったいない」ということになるのだ。
 同時に、私と会話してもなお、エネルギー資源の消費が、自分たちの将来の首を絞めることに気付けないということにもおののく。私の目の前にいる生徒たちは、良くも悪くも典型的な日本の一般市民である。生徒の意識は、多くの日本人の意識を代表しているだろう。
 幸い、エアコンは教室ごとには操作できない。気温や湿度に基準があって、それを超えると事務室でスイッチを入れる。数日前、事務長と「このやり方でよかったですねぇ」という話をした。集中管理ではなく、生徒任せにしたら、エアコンは間違いなく際限のない使い方がされてしまう。温度設定だって、25℃どころか、20℃、18℃にされてしまう可能性さえある。そしておそらく、彼らの家庭というのはそうなっているのだ。全てにおいてこのような意識で生活していたら、温暖化の解決などはあり得ない。多少のブレーキを掛けることさえできない。
 教室のエアコンは事務室で一元管理だが、職員室のエアコンは独立している。生徒と上のようなバトルをしてから授業を終え、職員室に戻ると、ある若手教員が、「少しムシムシしないですか?そろそろエアコン入れていいんじゃないですかねぇ」と言い出した。幸い、その時は、他の教員がこぞって「ぜんぜん暑くないよ」と言いだし、スイッチがオンになることはなかった。ただ、それは節度ある機械の使い方についての問題意識とか、温暖化への危機感とかいうのではなく、単に多くの人にとって暑くなかったというだけだ。
 私にとっての「常識」は、できるだけ我慢して、スイッチを入れるのは最後の最後、というものだ。文明の利器によって、常に最適の環境を作ってしまえば、人間は非常に脆弱になる。エネルギーの浪費も論外。だけどそんな思いは、多くの人にとっては「非常識」なんだろな?
 「使わないともったいない」は、自分の能力について言うべき言葉のような気がするのだけれど・・・。