国語の教科書

 私が教員になった30年あまり前には、国語の教科書というのは名文の宝庫で、国語の教科書って面白いなぁ、と思いながら読むことができた。ところが、その質は改訂のたびに低下を続け、今や「なんでこんな文章が教科書に載ってるの?」と思うような作品が多くなってしまった。
 3年生の「現代文A」という科目で、今月、本当にやむを得ず、今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」という文章を扱った。言語によって単語の意味する範囲(=面)は異なっているので、意味を点で理解し(下の注参照)、単語を置き換えただけでは、言語によるコミュニケーションは成り立たない、ということを訴えた文章である。これは、以前このブログで触れたことのある鈴木孝夫「ものとことば」(→その記事)の主題とほぼ同じである。決して主張として間違ってはいない。
 ところが、作者は「語彙数(平居注:点としての意味を理解できている言葉の数)が多ければ外国語が使えるというわけではない」とした上で、その証拠として「日本人には外国語の難しい文献を読むことはできても、話したり書いたりするのは苦手という人がとても多い」と書く。私などは「えっ!?!」と驚く。コミュニケーションの可否が、単語の意味を面で理解できているかどうかにかかっているとすれば、「読む」「書く」「話す」に本質的な違いがあろうはずはない。「日本人には外国語の難しい文献を読むことはできても、話したり書いたりするのは苦手という人がとても多い」というのは、確かに、日本人の外国語能力を説明する時によく言われることで、私も概ね正しいと思うが、それは決して「単語を点として理解できているだけ」だからではあり得ない。
 たとえ1カ所の論理的破綻とは言っても、世の中にはこのブログの記事を始めとして(笑=冗談です)、もっと理路整然としていて味わいもあるまともな文章が山のようにあるのだから、何もわざわざこんな文章を教科書に載せる必要はない。とにかく、最近、教科書の文章を読んでいると、この類の作品が多い。編集者の見識を疑う。
 文章は、読んでいる途中で不満を感じたとしても、まずは作者の主張を素直に受け止めることが第一だ。それをした上で、作者の主張を鵜呑みにせず、是非について検討を加える。私の授業も、その原則は常に守る。今問題にしている箇所は、日本語の意味を理解するのは容易な部分である。そこで、次の段階として、「日本人には外国語の難しい文献を読むことはできても、話したり書いたりするのは苦手という人がとても多い」ことが、「語彙数が多ければ外国語が使えるというわけではない」という主張の例証になっているかどうか考えさせる。自力で論理のおかしさに気がつけない生徒でも、「日本人には~」が「語彙数が~」のちゃんと例証になっているかどうか考えてみなさい、と言うと、真面目に考えようとしさえすれば、そのおかしさに気づける。
 そこで更に、私は、「日本人には外国語の難しい文献を読むことはできても、話したり書いたりするのは苦手という人がとても多い」のはなぜか、本文を離れて独自に考えさせる。テキストを読む上では不要な問いであるが、彼らが身近な問題を考えるトレーニングとしては悪くない。生徒から出てきた答えは、まったく的外れなものを別にすると次の通りだ。

・学校の英語の授業が読むこと中心だから。
・日本人に積極性が欠けているから。
・テストがあるから。

 これはとても的確な指摘である。なにしろ、作者が「できる」と言っている「読む」は受動的行為、「苦手」と言っている「話したり書いたり」は能動的行為なのである。日本人は自己主張に乏しいと言われることと「話したり書いたり」が「苦手」であることとは整合的だ。私が驚いたのは、「テストがあるから」である。テスト(考査)が必ずあり、そこで「話すこと」を問うのが難しい以上、授業が読解中心になることは避けられない。その意味で、テストの形態と授業のあり方は表裏一体なのであるが、生徒から「テスト」が指摘されるとは思わなかった。
 いくら的確な指摘でも、「おお、偉いなぁ」と感心して終わってしまったのでは、教師として情けない。私はテストと授業の関係を説明し、生徒の指摘を正しいと思うとした上で、一歩踏み込んで「実は、授業が読解中心になっているのは、テストがあるからというだけではない。さあ、他の理由って何だろう?」と問いかける。
 ここから先、問答の詳細を書くと長くなるので省略するが、この議論をしていくと、

・日本人は人の顔色を窺ってばかりいて、明確に自分の意見を言わないので、意見が出るのを待っていると授業にならない。
・1クラス当たりの人数が欧米に比べて多いので、一斉授業をするしかない。(自己主張をし始めると、収拾が付かなくなる。)
・(明治&戦後)欧米の文化を取り入れるために、文献からの学習が必要だった。
・学校の授業が、実用ではなく、学問対応になっている。

というようなことが分かってくる。これは、明らかにテキストを読むということからすれば逸脱なのだが、広く日本人の性質や教育制度について考えさせるきっかけとしてはいい。
 作者も編集者も文科省教科書検定官も、この部分の論理のおかしさには気付いていないが、おかしいがために考える材料になり、そこから社会が見えて来る。授業をやっていて少し面白かった。けがの功名。

 

(注)分かりにくいと思うので補足する。

作者は選択式のテストで言葉の意味を尋ね、正解となる選択肢を選ぶ、すなわち単語と意味が一対一対応になる理解の仕方を「点で理解する」としている。例えば、blueの意味は「青」が正解だ。ところが、「ロシアンブルー」という色の猫は、日本語で言えば「灰色」である。これは、英語のblueの意味の範囲が日本語の青の範囲と異なるために生じる現象である。この意味する範囲が「面」ということになる。