鈴木孝夫「ものとことば」の授業(1)

 考査直前、授業で鈴木孝夫の「ものとことば」という評論を読んだ。構成が非常に明快。第3段落の冒頭が、「抽象的な議論はこのくらいにして、具体的なことばの事実から考えていくことにしよう」となっていながら、そこで語られる具体例が、それ以前の「抽象的な議論」の具体例にはなっておらず、別の観点を付け加えるための例になっているという問題点はあるけれども、その問題点を指摘するという批判的な読み方の勉強も含めて、授業で扱うにはほどよかった。

 もっとも、言葉なんて自ずから今のような形であるもの、と感じている高校生にとって、内容的には決して簡単とは言えない。重要になってくるのは、作者の論を分かりやすくするための具体的な事例だ。これが、本文中にはほとんど出て来ない。皆無と言ってもいい。そこで、私はこんな話をしました、という記録を書いておく。なにも立派な話をしたというのではない。私の場合はこんな事例、というだけなので誤解なきように。
 まずは、作者の語っている内容の要点を紹介しておく。
 作者はまず、一般の人々が

 

① ものがあれば必ずそれを呼ぶ名としての言葉がある。
② 同じものが、言語が異なればまったく違った言葉で呼ばれる(=言葉が違っても、呼ばれるものは同じである)。

 

という認識を持っていると指摘した上で、言語学者という専門家の立場でそれらについて検討を加えると、

 

①’ことばがものをあらしめている(=世界の断片を、ものとか性質として認識できるのは言葉によってであり、言葉がなければ、犬も猫も区別できない)。
②’言語の違いによる異なった名称は、かなり違ったものを、私たちに提示していると考えるべきだ(=言葉の構造や仕組みが違えば、認識の対象もある程度変化する)。

 

という結論に至ると述べる。
 冒頭で書いたとおり、これらを理解できるかどうかについては、どれだけ適切な事例が挙げられるかにかかっている。
 作者は、②の例として、イヌを挙げる。日本語では「イヌ」、中国語では「狗」、英語で「dog」、フランス語で「chien」、ドイツ語で「Hund」・・・という具合である。ところが、②’の立場で考えると、これらの呼称の違いがどうなるか、には触れない。私はまず、この点から問題とした。

 

「私:今は世界中でものが行き来しているからダメだけど、100年前の日本人に、「犬」と言ったら、相手は頭の中にどんな犬を思い浮かべるだろう?
生徒:柴犬(不思議と4クラス全てで答えは「柴犬」だった)!
私:柴犬だけかどうかは知らないけど、秋田犬とか土佐犬とか、確かに、いわゆる和犬と言われるような犬を思い浮かべただろうねぇ。じゃあ、同じ時代のイギリス人に「dog」って言ったら・・・?そう、セントバーナードだかコリーだかシェパードだか知らないけど、少なくとも柴犬は思い浮かべないでしょ?だったら、「犬」と「dog」は違うじゃん。作者が言っている②’って、おそらくそういうことだよ。
 あるいは、こんなこと考えてみようか。どこかの家に行って、「お茶どうぞ」って言われた時、どんなお茶が出てくるって予想する?
生徒:緑茶。
生徒:麦茶。
生徒:ウーロン茶。
私:他は?・・・へぇ、今「ほうじ茶(番茶)」思い浮かべる人っていないんだ?はい、じゃあ、みんな手を挙げてね?緑茶だと思う人?・・・はぁ、8割くらいかな?麦茶だと思う人?・・・5人?ウーロン茶は?・・・2~3人ってとこかな?
じゃあ、イギリスで「Tea please」って言った時、人はどんなお茶が出てくるって予想するかな?
生徒:紅茶。
私:他には?・・・はぁ、全員紅茶なの?・・・うん、確かにそうかも知れないな。
だったらやっぱり、言語が違えば認識の対象も変化する、っていう②’は正しいって納得するしかないかな?
次は①。こっちは古文で考えてみようか。古文も、私たちから見れば外国語と同じ、「異なる言語」だからね。皆さんが、高校に入ってから勉強した文章の一部です。
                                 (続く)