方言学はどこへ向かうか?

 私は、11月2日が文化祭の代休だったので、4連休であった。しかし、それもあっという間におしまい。しかも、今日は、第6回宮城県高文連東部支部総合文化祭というのがあって、私も係の1人だったため、お仕事であった。東部支部というのは、多賀城、塩釜から石巻という広い範囲なのであるが、総合文化祭は大規模なものではない。一般公開もわずか3時間。東松島市のコミュニティーセンターでひっそりと開催した。
 係だから行ったというだけなのだが、久しぶりで見た塩釜高校ダンス部の青春そのものといった感じの生きの良さはすばらしかったし、展示では書道に感銘を受けた。今や、書道の専任教員がいる学校はごくわずかで、今回の参加校にも専任はいないはずなのに、どうしてこんなに豊かな書の世界を創造できるのだろう、と驚いた。年齢とともに、書の奥深さに目を見開かされているという事情もある。
 それはさておき・・・
 10月17日、帰宅したら荷物が届いていた。差出人は大修館書店。本を注文した覚えはない。開けてみると、大西拓一郎『方言はなぜ存在するのか - ことばの変化と地理空間』という本が出てきた。ははぁ、ありがたい。
 著者は私の大学時代の同級生で、ラボ第16回で講師もしてもらった国立国語研究所教授である(→その時の記事)。献本枠がどれくらいあるのかは知らないが、学会関係などで献本しなければならない相手も多いだろうに、いつも新刊が出ると送ってくれる。ちなみに、奥書を見ると、刊行日は11月1日なので、私の所に届いた時には刊行前であった。受け取りのメールを送ると、「本書は、石巻ラボトークもひとつのきっかけになっています」と返信があった。
 見慣れない用語が出てくることなどもあって、多少難しいと感じる。何しろ、著者は頭脳明晰な人なので、論理の混乱・破綻などあろうわけもない。多少難しいというのは、あくまでも、こちらが用語になじんでいないという問題、それから言語地図を前に説明されれば容易に分かることも、全て文字によって理解しなければならないことの煩雑とによっている。そこで、この半月の間に3回読み直すことになった。今日、その3回目が終了。
 著者が「石巻ラボトークもひとつのきっかけ」と言っているのは、全13章のうち主に第1章、第2章、「とうもろこし」「じゃがいも」の変化に関する部分だ。この章は、ラボで話した内容ほとんどそのままなので、復習のつもりで読むことが出来た。ちなみに、ラボの時の演題は「強い作物のゆるい方言変化物語 -モロコシ(玉蜀黍)、ゴショーイモ(馬鈴薯)など-」であった。
 著者は、「とうもろこし」「じゃがいも」の他に、「桑の実」「燕」「虫」「煮こごり」「ひっつきむし」「そばかす」といった言葉の方言分布を手がかりに、類音牽引、同音衝突、民間語源、混淆、有縁化といった現象がどのように起こるか、そして言葉というのはどのように変化するものなのかを分析している。単語だけではなく、文法についてもだ。それらは全て推論であるとはいえ、確かに合理的な推論であると思わせるもので説得力がある。人間のコミュニケーションというものを、方言変化を通して間接的に見ていることになるわけで、方言変化の向こうにある人間同士の関わりを想像するのは楽しい。
 また、著者の議論は、全て地道に方言調査を行って言語地図を作るという多くの人々による途方もない作業の上に成り立っている。この本の中に書かれた議論以前のそんな基礎作業に思いを致すと、わずか250頁の本が何倍もの分量に見えてきて感動的だ。
 しかし、以前私は、身の回りの高校生を見ていて、方言というものはほとんど消滅しているのではないかという危惧を書いたことがある(→「方言の消滅」)。今や、コミュニケーションの中心はスマホ。人と直接向き合い、会話をする中で言語が変化していくということは少なく、言葉は一足飛びに数㎞、数十㎞、数百㎞と移動し、拡散する。そうして生まれる現在の言語変化も、人間の生活を反映するという点で方言と根は同じなのだろうけど、現象としてはまったく違う。
 方言学は、今後どこへ向かうのだろう?