音楽は魔術…ラボ第15回

 昨晩はラボ・トーク・セッション(通称:ラボトークまたはラボ)第15回であった。私は12日(水)がNIE高校部研修会(懇親会付き、仙台)、14日(金)が職場の忘年会(仙台泊)だったので、少々疲れ気味。
 さて、今回のゲストは作曲家で石巻専修大学教授の近藤裕子さん。1年ほど前から、ラボを通してお知り合いとなっていた方だが、音楽家としての近藤先生を目の当たりにするのは初めてであった。演題はズバリ「作曲・編曲という仕事」。
 話は編曲から始まった。先生が持参されたキーボードで、まずは「キラキラ星」を弾く。次に、教科書どおりの和音で伴奏を付ける。次に短調の和音で伴奏を付ける。プロの音楽家としては他愛もない作業で、誰がやっても私を感心させるくらいはわけのないレベルのこと、と分かってはいるのだが、目の前でそれをさらりとやられると、素人としてはびっくり仰天である。あの単純素朴な「キラキラ星」が、あっという間にジャズのナンバーに変化し、会場には夜の気配が漂い始める。
 メロディーを作るのは作曲という仕事の一部。そして、このような和声を変化させていくのは編曲という仕事。先生は、この後も、「卒業写真」や「赤いスイートピー」を例に、どのような和声付けの妙が凝らされているか、ピアノを弾いたり歌ったりしながら説明して下さる。どちらかというと、作曲に比べると「従」の立場に思われる編曲が、実は大きな可能性を持つ深い作業であることがよく分かる。
 次は、音大作曲科の入試のお話。以前にも先生から個人的に少し伺ったことはあるのだが、初見演奏に始まって、和声、作曲(各種)と、1週間もかかるという作曲科の入試は圧巻だ。これに比べると、たとえ受験科目が多い東大を受けると言っても、1科目せいぜい150分の教科の試験が幾つかあるだけ。センター試験を合わせても最長で4日という一般大学の入試が、本当に甘っちょろいものに見えてくる。
 その後は、音大に入学してからの授業の話やら、音大卒業後の経歴に触れながら、自分自身の作曲との関わり、基本的考え方・・・と話は進んだ。最後は、石巻市内のある庭の情景にインスピレーションを得て、今年作ったという「緑蔭 尺八と箏のための」という曲を鑑賞して終了。
 1時間半近くに及んだお話を、私はもちろん退屈することなく聞いてはいたのだが、もともと自分にとって興味のある分野だったこともあり、もっと深く解説して欲しい、という点がいくつかあった。特に気になったのは、以前から気になっていることなのだが、音楽における「フランス的」と「ドイツ的」という問題である。
 作曲科に入ると、フランス音楽系の先生とドイツ音楽系の先生というのがいて、それらの間の交流はゼロ。それぞれに師事している学生同士の交流もゼロ。そのどちらに就くかによって作曲家としての人生はすっかり変わってしまうのだという。ちなみに、近藤先生が指示しておられた高田三郎という先生は、フランス音楽系の方である。
 私がこの問題をひどく意識したのは、以前、湯山昭(について→こちら)の自伝(『人生は輪舞』全音楽譜出版社)を読みながらその音楽を聴いたり弾いたりしていた時なのだが、その他の音楽についても、明らかにフランス的な世界とドイツ的な世界は違う。だが、音をどういじればフランス的になり、どういじればドイツ的になるのか、なぜそれらの響きの違いを私たちはフランス的、ドイツ的と感じるのか、そもそも、なぜ両国間にそれらのような違いが生じたのか、といった点については実に不可解なのである。
 講演が終わった後、例によってぐだぐだとそのお話を酒の肴に飲んでいると、よく似たことを言っている人が何人かいる。その他の問題も含めて、どうやらこれは、ラボ番外編でも企画するしかなさそうだ。
 今回のラボは、初顔も多く、参加者の立場(職業・年齢等)もバラエティーに富んでいてよかった。次回は2月。テーマは、参加者のリクエストに応えて「方言学」。乞うご期待。