国民教材(?)『山月記』・・・その3



 授業で『山月記』を扱う場合、読解のポイントとして最も重要視されてきた箇所として、『「山月記」はなぜ国民教材となったか』の著者は、李徴が旧詩の朗読を終えた場面で、それらの作品について袁傪が「このままでは、第一流の作品となるのには、どこか非常に微妙な点において、欠けるところがあるのではないか」と評価する場面を取り上げる。そして、「この部分について、「一体何が欠けていたのか」という問いが繰り返し発せられ、李徴の人間性との関連で論じられてきた。この「欠けるところ」を扱った「山月記」論の数は膨大な数に上る」と書く。

 著者は、それらの人々がどのような「答え」を用意したかということや、その問い自体についての賛否を紹介した上で、「半世紀前から現在に至るまで「山月記」論はこの解釈をめぐって発展してきたと言っても過言ではない」と書き、「もちろん本書もそのひとつである」と括弧書きで注記する。確かに、この本のあちらこちらで、この問いばかりが目に付くのである。

 私は、『山月記』を読む上で最も重要な問いは何かと聞かれたら、「一体何が欠けていたのか」よりも、「李徴はなぜ虎になったか」を挙げるだろう。

「おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。」(『山月記』本文)

 「尊大な羞恥心」は、この直前に出てくる「臆病な自尊心」と基本的に同じである。これらに気付くことそのものは決して難しくないが、尊大=羞恥心、臆病=自尊心というねじれた表現、そしてこれらがどのような心理であるかということを掘り下げると、意外に奥の深い問いとなる。

 著者は、『山月記』を収録する多くの教科書の指導書を検討した結果として、読解指導の六項目と言うべきものを見出している。その三番目として、「「李徴の心理・性格」と「虎になった理由」の問いがあること」を挙げる。だが、「虎になった理由」すなわち「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を多くの教育者がどのように扱ったかについては、全く触れない。

 この言葉の中には、人間の強さと弱さの両方が含まれる。人は誰も、李徴と同じように人の意向を伺ってびくびくする弱気な面と、自分自身の価値を積極的に認めて強気である面とを持っているだろう。それがどの程度の比率で混じり合うかによって、各自の人間性、個性というものが生み出されているのだと思う。李徴は尊大な自尊心も、臆病な羞恥心も人一倍強く、そのあり方が極端だった。この部分を読む生徒で、自分と李徴とを同じだと考える生徒は決して多くないだろう。だが、自分の中にもそれらの要素が同様に含まれていることは自覚し、各自の自覚(自己分析)の内容によって李徴にいろいろな思い入れを抱くのだと思う。

 つまり、李徴はなぜ虎になったのか?という問いを通して、人間、もしくは自分というものの性質に目を向けるのである。文学作品の多くは、「人間とは何か」を重要なテーマとするし、そうでなかったとしても、作者の人間観を濃厚に反映する。『山月記』ももちろんそうである。

 著者は、「(指導書の読解六項目に従い)苦心して読解を終えた学習者の先に待っているのは、「好き勝手やっていると悲惨な目にあいますよ」という、お説教なのである」と書き、他の所でも、『山月記』が「お説教の道具としてのみ扱われてしまう」ことを指摘している。だが、それは、読解六項目の第四番目、「欠けるところは何か、という謎掛けがあること」を偏重することから生じる結果であって、第三番目「虎になった理由」からはむしろ、人間とは何か、人間とはどのような生き物かという重要な洞察が生まれてくるはずである。

 著者は、『山月記』をどう読むかは、戦後民主主義の社会、効率重視の資本主義、「現代国語」という科目の登場など、時代状況によって大きな影響を受けることを明らかにしている。いや、「影響を受ける」と言うよりは、むしろ「時代の要請に応えようとしている」と言った方がよいかも知れない。「一体何が欠けていたのか?」という問いも、そのような文脈の中で大きな力を持ってきたようだ。

 だが、これは私にとっては不思議なことである。もちろん、時代状況の中にあって作品を読む以上、時代状況から完全に自由であることはできないわけだが、それらは意識しなくても影響されるというだけであって、作品に向かう時の姿勢としては、作者が何を描こうとしたかに対してのみ虚心に耳を傾け、そこから普遍性を抽出していくしかない。何かを分からせ、何かを伝えようと、始めから到達点を意識してテキストを読むのは邪道だし、無批判にマニュアルに従うなどというのは論外であろう。私たちが生徒に教えるべきことは、学習指導要領でも指導書でもない、作品の中からしか見えてこないはずなのである。だから、作品をしっかりと読むことができることを抜きにして、よい授業も存在しない。

 1960年代の半ばに、「現代国語」という科目が設定された際、国語教師達が感じた戸惑いとは、今使っている日本語で書いてあるのに一体何を教えろというのか?というものだった。これは、私が国語の教員になった当初の戸惑いと同じである。しかし、たかだか現代語でも、それを正確に読むことは案外難しいし、一つの作品から引き出せる情報の量も、人によって驚くほど違うものであることにやがて気付く。著者が取り上げる実践例や論争は、作品に向かう時の姿勢として、虚心に作品を読むという原点に、どれだけ基づけていただろうか?その点をもっと問い詰めていくべきだったのではないか?(続く)