国民教材(?)『山月記』・・・その2



 『「山月記」はなぜ国民教材となったか』の中で、著者(佐野幹)が、特に多くのページを割いて取り上げている授業実践が二つある。一つは増淵恒吉の「課題学習」であり、もう一つは分銅惇作の授業である。前者は、1950年代半ば、後者は、1960年代後半に行われたもので、前者が「戦後民主主義」を背景としているのに対して、後者は「現代国語」という科目の誕生を背景としている。更に言えば、前者が、生徒が主体的に学習することを目指して行われた実践であったのに対して、後者は、「現代国語」を教えることに戸惑った教師が、指導書に頼りながら授業をした記録である。

 これらのように、二つの実践には多くの相違点があるにもかかわらず、やはり本質的に同じものだ。それは、どちらも教師の問いかけに対してあらかじめ「答え」が用意されている「正解到達型」の授業だということである。もっとも、これら二つの実践が別の章で論じられていることからも分かるとおり、著者はこれらの共通性を重要視しているようではない。

 なぜ、二人は「答え」に固執したのか。増淵については、「読者の現象としての読みの行為を捉えずに、素朴実在論の域を出ず、作品を固定された分析対象として考えていたからだ」とするが、同時に、「時間の節約と不確定性の排除によって授業の効果を上げようとする、学習の効率化・合理化にあった」という「課題学習」の目的もまた、そのことと関係するだろう。一方、分銅については、上でも背景として指摘した、「現代国語」への戸惑いがある。これは、それ以前の高校における国語の授業が、古典を中心に行われていたのに対して、1965年に「現代国語」が創設された際、現代文を授業で扱うことに戸惑った教師達が、指導書に頼って授業を展開しようとした、ということである。

 これらの分析はおおむね正しいと思われる。だが、いくら現代文の教え方に戸惑いがあるとは言っても、不自然で無理のある授業であることを自覚しながら、あえて指導書をマニュアルとして墨守するほど現場の教員というのはバカだろうか?彼らのような授業展開に至る理由として、非常に大きな見落としがあるのではないのだろうか?私は、それを試験との関係であると考える。

 著者は、大学入試や就職試験によって高校の授業が影響を受けることに少しだけ言及しているが、定期考査との関係には触れない。だが、むしろ重要なのは定期考査なのである。と言うのも、高校には必ず年に4〜5回の定期考査というものが設定されているが、それは、授業で勉強したことを生徒がどれだけ身に付けているかという確認テストの性質が強い。しかも、試験として客観的(答えにぶれがない)であることが求められ、確認テストとは言っても、その結果が評定(内申点)に結びついて就職や進学にそれなりの影響力を持つため、公平性も不可欠である。

 国語の教員である私が、どのような時に「いい授業ができた」と実感できるかと言えば、それは、生徒とともに、目の前にある文章に基づいて能動的に何かを考えることができた時であり、価値があるのは、その思考のプロセスである。ところが、いろいろなことを考えた結果として、充実感に浸れたとしても、最後にはそれを定期考査で問わなければならず、その時には思考の「結果」だけしか問題にできない。だから、要領の良い生徒は、最後の結論だけを覚えようとして思考には参加せず、真面目な生徒は思考に参加しているのに考査で点数が取れない、ということが往々にして起こる。思考のプロセスを考査で問うことは、ほとんど不可能と言ってよいほどに難しい。各自の思考の度合いははっきりと目に見える形にならないので、公平性を考えると、平常点に反映させることも限られた範囲でしかできない。

 こうなると、生徒も教員も「正解」は無いと困るのである。試験が入試や就職試験だけなら、『山月記』がそのまま問題として出されることはまずないから、『山月記』をトレーニングの場として、読解のプロセスに重きを置く授業もできるだろう。だが、確認テストである定期考査については、どうしてもそうはいかない。定期考査が避けられない限り、文章の読みの多様性は保証されない、もしくは、多様な読み方ができない場所しか大切にされないに違いない。

 生徒が生き生きと授業に参加し、主体的に読むことと、定期考査で客観的に学習実績を問うこととのジレンマで悩む教員は私だけではあるまい。では、いっそのこと定期考査など廃止すれば、硬直した知識の習得を過大視しなくて済むのに、とは思ってみるが、残念ながら、学校という場所は、高校という本来任意であるはずの場所ですら、始めから勉強する気の全然ない生徒をたくさん受け入れている上、クラス当たりの生徒数も多く、教員の生活にも余裕がないために、手っ取り早く生徒を学習に向かわせるために、テストの点数や進級、進路といった「鞭」をちらつかせることがしばしば行われる。そんなことをしても、前向きな学習が行われるはずはない。だが、そんなことをする教師を批判して済む問題でもない。そんな状況下で、ますます客観的に問うことができ、努力が点数に反映されやすい固定的な知識ばかりが大切にされるようになる。現代文と考査は二律背反の関係にあるのである。

 これは、授業のやり方だけではなく、作品についても同じようなことが言える。優れた作品ほど多様な読みの可能性を含むという法則があるように思うが、その作品の可能性を狭める方向でしか授業は行われない。そんな事情の中にこそ、増淵や分銅の実践の意味は見えてくるのではないか?(続く)