立派な「ご指導」よりも「自由」を子どもに!

 先週の水曜日、高等学校の新しい学習指導要領案が発表された。朝日新聞によれば、改訂のポイントは以下の4点だそうだ。
・選挙権を持つ18歳を「社会の担い手」に育てるため、授業の質を高める。
・生徒が知識を活用して主体的に問いを立て、解決策を考えられるようにする。
・学びで「何が出来るようになるか」と、「どのように学ぶか」を示す。
・科目を見直して「公共」、「歴史総合」、「地理総合」を必修とする。
 ちなみに、毎日新聞によると、次のとおり。
・必修科目「公共」、「歴史総合」を新設。
・主権者教育や領土問題の指導を強化。
・思考力、判断力、表現力の育成を重視。
・「主体的・対話的で深い学び」による授業改善。
・全教員が道徳教育を展開。
 決して今回だけの話ではないけれども、新聞によって随分違うものだな。それでも、こうして2紙を比べてみると、重要なポイントが何かということは、ある程度確かなものとして見えてくるような気がする。
 既に問題点は多くの人々から指摘されている。主体的な思考力、判断力の育成を言いながら、領土問題や愛国心は押しつけるというアンバランス、大学入試改革と一体と言っても、本当に主体的な思考力や判断力を試験で問うことは可能なのか、といった問題が中心となる。
 私も、まず最初に思うのは試験との関係だ。主体的な学びは絶対に試験に馴染まない。主体的な学びではプロセスが重要であるのに対して、試験というものは、結果を問うことが中心になるからである。では、過程を問うように問題を変えればいいではないか。おそらく、理念としてはその線で大学入試改革は進められている。しかし、本当にそんなことが可能だろうか?
 歴史を見ても、試験と対策はいたちごっこ。どんなに工夫して問題を作ったところで、それが一定のルールの中で何かしらの答えを求めている以上は、どうしても対策の対象となり得る。思考力、判断力は運動であり、答えは固定されたものだ。矛盾するのである。
 このことは、大学入試との関係だけではない。日常的に行われている高校の定期考査を、主体的な思考力、判断力を評価するものに変えることができるか、と問われれば、私の答えは「NO」だ。生徒からは分かりやすさと公平とが求められ、考査の結果が内申点として就職や入試に影響を及ぼすとなれば、どうしても今のようなスタイルにならざるを得ない。それらの全てを変更させるような大改革は、少なくとも私の想像の限界を超えている。
 私は、朝日新聞が社説で言うような、主体的な学びを言う一方で、特定の問題だけは上から目線で教え込もうとしているという批判には、必ずしも与しない。例えば、人を殺してはいけない。いろいろな意見が世の中にありますね、では済まない問題だ。世の中のよって立つ原則というか、基礎となる価値観で、しっかり教え込まなければならないものは少なくない。民主主義の基本的な考え方やルールなども、そうしたものの1つだ。現政権が教え込もうとする価値観が、愛国心や領土問題といったことであり、それが偏ったイデオロギーだと感じられるから不愉快なのである。主体的思考と知識の注入が矛盾するから文句があるというわけではない。両者のバランス、メリハリは常に必要だ。
 では、私は基本的に今回の改訂案に賛成か?と問われれば、イデオロギーの押しつけ的な部分を別にしても、とても賛成とは言えない。学習指導要領の中で言われている主体的な思考力の育成というのが、授業だけで実現するとは思っていない、むしろ授業以外の場所のあり方が問題だ、と思っているからである。
 私が思うに、主体的な思考力を奪っているものは大きく言って「大人による子どもの管理」だ。その原因は2つある。ひとつは、管理責任ということが厳しく言われ、ひとたび事故が起きると責任が徹底的に追求される中で、安全を最優先に考えるあまり、関わる大人ができるだけ子どもに何もさせないという傾向が非常に強いということだ。そしてもうひとつは、無駄な豊かさの中で暇な大人が、子どもを自分のおもちゃにする傾向があるということだ。
 子どものためを装いながら、自分の保身や楽しみのために子どもを管理し、利用する。そんな中で、子どもは子どもの世界を持つことが出来ず、大人のいうことを唯々諾々と聞くようにしつけられていく。釈迦の手のひらの悟空である。その一方で、授業中に主体的思考を伸ばそうとしても、それは無理というものである。
 いくら屋内ジムで体を鍛えようとしても、自ずから限度がある。自動車も水道もない所で、遠くまで水くみに行く生活をしていた人に勝てる体力が付くわけがない。それと同じことである。子どもは、大人の目の届かないところで自由に遊び、その中でいろいろな問題にぶつかり、解決方法を探していく。それこそが本当に主体的思考を鍛えるための唯一の方法だ。のびのびと自由な時間を豊かに持っていること。これに勝る方法はない。
 学習指導要領を使って教師を「指導」するのであれば、授業を中心とする教科指導だけが先生の仕事です、部活動その他、授業以外の場所で生徒同士が何をしていようが、そこで事故が起きようが、そんなことは気にしなくていいですよ、進路の選択・決定なんて生徒が自分たちで行うべきことですから、先生方が責任を感じたりする必要はありませんよ、と言って、教師が生徒を放置できる環境を作る=生徒が自由に動ける時間を作る方が、よほど主体的思考力ある人間の育成につながるだろう。学校は1人の人間の生活と人生、全てに責任を負うわけではない。学校の立場と役割を限定して、そこに何でもかんでも請け負わせてはいけないのである。そうしなければ、生徒が主体的に悩み、行動する自由は決して実現しない。
 社会全体の大人の傾向の結果として、今の若者がいる。学習指導要領は学校現場でこそ強い力を持っているが、社会という魔物に対してはひどく無力だ。教育に携わる者全てが、そのことをよく肝に銘じなければ・・・。


(言いたいことを伝え切れていない。いずれ補足を書かなければならなくなるだろう。)