同窓会に対する複雑な思い



(10月24日付け学級通信より)


 先日、私が卒業した高校の同窓会から、「同窓会報」なるものが届いた。毎年この時期になると必ず届く。しかしながら、実は、大変申し訳ないことに、私は同窓会費というものを払ったことがない。お金をケチっているわけではない。ここから1000キロも離れたところにある高校で、既に実家もその近くにはないし、ふと懐かしくなって10年に1度くらいその町を訪ねるのが関の山。どう考えても、同窓会のイベントに参加するなど金輪際ないだろう。そもそも、私は徒党を組むのが嫌いなので、思想信条とも趣味特技とも関係なく、同じ学校を卒業したからというだけの理由で集団を作ることに素直になれないのだ。

 しかし、届いた「同窓会報」はなんだか嬉しい。特に知っている人が出ているわけではないのに・・・である。これを「郷愁」というのだろうか?。そういえば、8月15日付け『河北新報』の「Eかお」という欄に、見覚えのある名前と顔を見つけた。自信が持てないので、20年ほど前に買った「同窓会名簿」で確かめてみたところ、確かに高校時代の同級生であった。現在、サッポロビール東北本部長という立派な地位にあって、仙台で働いているらしい。確認が必要だったことに表れているとおり、特に仲の良かった人物ではなく(何しろ、同じ学年に宮水の全校生徒数を上回る450人もいたしね・・・)、かろうじて覚えていたというだけなのだが、なんだか無性に懐かしい。おもわず、記事を切り抜いて、ノートに貼り付けてしまった。

 頭と心はちぐはぐである。だけど、頭と関係なく心動かされるところが、体に染みついたものによる「懐かしい」という感覚なのだろう。諸君もあと半年弱で卒業し、宮水を「母校」とすることになる。諸君は「母校」にどのようなスタンスを取ることになるのだろうか?


【「新聞を読む」の意味するもの】

 一昨日、朝のSHRで、「学級日誌」についての今年何回目かに当たる愚痴をこぼした。せかっく新聞店の厚意で各教室に新聞が配布されているわけだから、週番の時くらい、新聞を読んで記事についてのコメントを書きなさい、と言ってあるわけだが、それを学習のきっかけとして生かそうという気配はほとんどなく、延々とプロ野球ネタばかりが続くことについての疑問を訴えたわけだ。担任からやらされている意識しか持てないからできない、というのではないだろう。なぜなら、朝読書の時間の使い方は各自に任されているにもかかわらず、ボヤーッとしている人(=何もしていない人)は少なくないからだ。やらせても任せても、いろいろな機会に少しでも学んで、自分の世界を拡大していこうという姿勢は見えないのである。私にとっては、どうしようもなく退屈な状況だ。

 10月9日、1年生の総合学習で、河北新報社のSさんに来ていただいて、「新聞講座」を開いた。「講座」の中でSさんは、「新聞を読む人は学力調査で点数が高い」という話をしておられたが、私は、新聞を読むから学力が上がる、のではないと思っている。学ぼうという意欲のある人は新聞や本を読み、その他の勉強にも意欲的で、その結果として学力が付くのだ、と思う。3年生は、就職試験との関係で、会社がいかに「やる気」を重視するかという話を、繰り返し耳にしたはずだ。なぜ、やる気が必要か、それに引きずられて全ては動き、好循環を生むからである。逆もまた真なり。


(文化祭についての記事省略=台風の接近により、今週末に予定されていた宮水の文化祭(錨章祭)は11月16日に延期となった。)


(裏面:8月11日付け『毎日新聞』より、「日本発 世界のヒット商品 ハウス食品のカレールー(中国)」を引用

平居コメント:毎週日曜日に連載されているこのシリーズを、私は楽しみにしている。そのうち紹介しようと思いつつ、今になり、しかも遡って2ヶ月前のものを使うことにした。商品を売ることは、経済である以上に文化だな、と思う。

同 10月23日付け『日本経済新聞』より「私の履歴書 利根川進 第22回」を引用

平居コメント:今年のノーベル・ウィークも終わってしまった。利根川進という人は、1987年に48歳で医学・生理学賞を受けた人だが、それに先立ち45歳で文化勲章を受けたという珍しい人物でもある(彼の業績がいかに際立っていたかということの表れ)。今『日経』に連載されている自伝は、胸のすくような成功物語であるが、昨日の記事は人間味も漂っていて特に心引かれた。)