国民教材(?)『山月記』・・・その1



 今、3年生の「選択現代文」という時間に、中島敦の『山月記』を読んでいる。『羅生門』『こころ』『舞姫』とともに、高等学校の「定番四教材」といった趣だ。

 そんな折、佐野幹『「山月記」はなぜ国民教材となったか』(大修館書店、2013年)という本を読んだ。執筆に手間のかかった作品を「労作」と呼ぶならば、これは確かに「労作」である。著者の修士論文らしいが、私の修士論文と比べれば、その出来は雲泥の差。たいしたものだなぁ、と感心した。

 一方で、その内容に素直に納得し、価値を認められるるかと言えば、安易に首を縦に振るわけにはいかない。この本の論理に沿って、いくつかの問題について考えてみたいと思う。この本の批判をすることが目的ではない。それをきっかけとして、『山月記』なり、学校なり、授業なりについて考えてみたいということである。

 まずは、今日問題とする部分のあらすじ。


 「『山月記』は「古潭」として括られた4つの作品のうちのひとつである。「古潭」四作品には、言葉や文字について考えるという共通性があるにもかかわらず、授業で『山月記』はそのように読まれては来なかった。それは、ある理由によって、『山月記』が「古潭」から切り離されたからである。ある理由とは、深田久弥が雑誌『文学界』に中島作品を掲載するよう推薦したが、戦後の紙不足の中で、『山月記』と『文字禍』という二作品だけが掲載されたということである。」


 『山月記』が教科書に載るようになった経緯については、確かにこの通りなのであろう。著者も、だから『山月記』は「古潭」の構成要素として、言葉や文字について考えるというスタンスで読まなければならない、と強く主張しているわけではない。だが、この部分は、授業との関係で言えば、まったく不要な部分である。なぜなら、作品が一人歩きをするというのは、当然のことだからである。

 仮に『山月記』を「古潭」の構成要素として読んだとしても、それは小説家・中島敦の全体像から見れば「部分」に過ぎない。仮に中島敦の全体像の中での位置付けを明確にしながら読んだとしても、次には、戦前の文学の中での位置付けが問題となるだろう。ここまで書けば、極論と思われるかも知れないが、作品が何かしらの意味で「部分」であることは、どのようにしても避けられないことなのである。

 例えば、定番四教材の中のひとつ、漱石の『こころ』などは、当然のことながら、全文を収録した教科書など存在せず、どこからどこまでを切り出し、どの程度のリード文を付けるかという違いはあっても、全ての教科書が、「下 先生の遺書」の一部だけを載せていることについて変わりはない。これも、決して不都合ではないのである。

 ただ、教科書で『こころ』を読んで、『こころ』なり夏目漱石なりが分かったような気になってしまうのは非常にまずい。同様に、『山月記』だけを読んで、「「古潭」という作品群は・・・」とか、「中島敦という作家は・・・」といった論じ方をしてはいけない。その点だけは肝に銘じるべきである。それさえできれば、むしろ、「『山月記』という部分によって、中島敦という全体が分かったような気になるな」という、学問に臨む時の一般的姿勢を教えるチャンスと考えることもできる。

 このことと関係するのは、中島が『山月記』を書く上でヒントにしたという『人虎伝』という唐代伝奇小説を、授業で利用することの是非である。これについては、作者が益田勝美や西尾実の見解を紹介しながらそれなりに論じている。益田の見解とは、「比較研究ではなく、『山月記』を一つの近代文学作品として形象を研究していくべきだ」というものであり、西尾の見解とは、「高等学校では、研究よりも先駆するものとして、めいめいの鑑賞を基礎にした研究的方向を進めることが第一ではないかと思います」、そして『山月記』の形象が比較文学によってしか捉えられないものであれば、『山月記』が高校の学習にとって不適当な教材だということになる、というものである。これらは正しい。だとすれば、『山月記』と「古潭」との関係もまた同様であるべきだ。

 私たちは、それが部分であれ全体であれ、目の前にあるテキストの中からどれだけの情報を引き出せるかで勝負すればいいのである。そうしなければ、授業は、知識量で圧倒的に優位にある教師が生徒に解釈を注入する、講義調のものへと傾斜してしまう他ない。高校の授業で文学作品を扱うのは、文学研究者が文学作品を扱うのとは、その目的においても方法においても、自ずから違って当然なのである。「古潭」に触れるにしても、『人虎伝』に触れるにしても、それは生徒の興味関心を引き出し、モチベーションを高めるための小道具としてに限るべきであろう。(続く)