100年で「古典」?

 先日、「古典」とは何か?みたいな話を書いた(→こちら)。その話を国語の秋季大会という所でした時、分科会がすっかり終わってから、某氏が私の所に来て、「平居さんは、何年経てば古典と評価していいと思いますか?」と尋ねた。私は、「作者が死んでから100年じゃないですか?」と答えた。その作品が生まれてから100年と言ってもよかったのだが、安全策で作者没後としたのである。某氏は「自分もそう思う」と述べた。
 なぜ100年か?少し根拠らしきものがある。
 例えば、私が小学校の頃にはやった歌があるとする。今、私がそれを聴いて「いいなぁ」と思う場合、そこには「懐かしい」と思う気持ちが含まれている可能性が高い。純粋にいいと思っているのかどうかは、よく分からない。この「懐かしい」は、次世代には伝わらないが、「懐かしい」という思いを持つ人が、完全にこの世からいなくなるまで、100年近くかかる。だから「100年」だ。
 では、作品が生み出されてから100年でいいではないか、と思うかも知れないが、やはりそれは危険だ。なぜなら、子供の頃にいいと思った歌については、それをきっかけに、その作者の歌を追いかけるということが起こるからだ。となると、やっぱり評価が確立し、安心して「古典」と評価できる目安は、作者の没後100年ということになる。
 もちろん、100年経って作品が残っていれば、それはもう「古典」として、500年も、1000年も生き残ることが約束されたことになるかといえば、そうとは限らない。逆に、「徒然草」のように、偶然生き残った作品が、100年以上経ってから注目され始め、300年後に広く評価を得て「古典」になったという例もある。また、作られてから40年、50年という作品でも、或いは、作者が死んでまだ20年という作品でも、かなりの確率で「古典」になると確信できる作品もある。今、私が言っている「100年」は、あくまでも目安である。
 今、3年生の「現代文」の授業で、夏目漱石の「こころ」を扱っている。「こころ」が書かれたのは大正3年(1914年)で、漱石が死んだのは同じく大正の5年(1916年)だ。今年で、書かれてから108年、死んでからでも106年が経つ。どちらにしても、上に書いた私の基準によれば「古典」となる。
 しかし、「こころ」が載っているのは、「現代文」の教科書であって「古典」の教科書ではない。それは、「古典」本来の意味とは関係なく、江戸以前の文学は「古典」、明治以降の文学は「現代文」と、書かれた時期によって区分されているからである。現在、明治の始まりから154年。この程度の時間だと、明治以降の作家で没後100年を迎えた人はまだ少ない。だから、作品の価値についての評価ではなく、書かれた時期を基準とした区分で問題が起きていないのである。これが、180年、200年と経つと、明治以降の作家でも没後100年を迎える人が多くなり、その作品にも、本来的な意味での「古典」が増える。単に江戸時代以前に書かれたからという理由で、それ以前の作品で生き残っているものだけを「古典」と称することは問題だ。「古文」と「現代文」とでも呼称を変更するか(「舞姫」のような擬古文はどうしよう?)、「こころ」のような作品は、明治以降に書かれたものであっても「古典」の教科書に移すかであろう。
 少し話が横道にそれたが、「古典」の定義には、厳密に考えれば、そういう問題も関わってくる、ということである。
 さて、このように書いては来たものの、人類の歴史の長さからすれば、100年は短い時間であって、人間の世が今後も長く続くなら(←可能性がかなり低いと感じられるようになってきた)、この機械的な基準では「古典」が増えすぎてしまう。人間が手にすることのできる情報量には限りがあるから、人間は更に「古典」の絞り込みをするだろう。そう考えると、没後100年を一つの目安にしつつ、現実的には、「現在までに作られたベスト100とか200とかが古典」なのかも知れない。