蘇生しなかった亡霊

 そういえば、休筆中の9月だったかに、面白い電話をもらった。かけて来たのは、母校である兵庫県立龍野高等学校の同窓会である。学校が創立120周年を迎えるにあたり、記念誌を作るから、そこに寄稿して欲しい、という内容であった。ま、私も一応著書が2冊あるし、そのうちの1冊は、出版社が母校図書館に送りつけたことによって、同窓会報にけっこう大きな紹介記事を出してくれたことなどあったので、同窓会事務局の方で単純に「では、33回生は平居」ということになったのであろう(電話でも、それらしきことを言われた)。
 私は日頃から、頼まれごとを出来るだけ断らないようにしている。面倒くさいから平居に、という場合もあるだろうが、私に何かしらの価値を認めてくれたり、担当者が困り果てているという場合が多いからである。「情けは人のためならず。」困っている人を助けておけば、いずれ自分が誰かに助けてもらえることもあるであろう。
 しかし、私は断った。なにしろ、実家は早くから母校の近くにない。卒業後、1000㎞も離れた大学に進学したこともあり、恥ずかしながら、若者特有の様々な人間的トラブルなどもあって、高校時代の人間関係も既に至って希薄。同窓会のイベントには一度たりとも顔を出したことがなく、会費さえも納めたことがない。創立100周年の時だったかに出版された同窓会名簿を買ったのが、唯一の同窓会との関わりなのである。そんな私が、記念誌に寄稿などした日には、まるで亡霊がよみがえったようなもので、かつての同級生を中心に、誰も愉快な思いはしないであろう・・・というのが、電話口で述べたおおよその理由である。電話をくれた年配の編集委員の女性は、「そんなことないでしょう。ああ平居君や、懐かしなぁ、元気にしとんねやなぁ、とか思う思いますけどぉ・・・。残念やわぁ」とかなんとか言っていたが、私の「お断り」は基本的に了承してくださった。
 電話で話した断りの理由は本心である。しかし、断ること自体が本心だったか?と言えば、100%本心とは言い切れない。多分、私は、どうせまた電話をかけ直して来るだろう、と少し思っていた。だが、電話はそれきり来なかった。残念というほどの思いはないが、微かな寂しさに似た感情はある。代わりに誰が書くことになったのかは知らない。購入の予定もない。
 その後、時折、私がその時、執筆を引き受けていたら何を書いただろうか?と想像してみる。執筆条件を聞くところまで話が進まなかったので、制限字数が何字であるかも知らない。私は、思い出話だけで終わらせることはしないだろう。かと言って、卒業後縁の切れている母校との関係で、どんな前向きなことが書けるわけでもない。見当が付かない、というのが正直なところだが、やはり、最終的には、かつて私がこのブログの元になった学級通信に書いたようなこと(→こちら)を書いて、お茶を濁したのではなかろうか。
 父が転勤になって、龍野という知らない町に住むことになった時には、あれこれと不満が大きく、親を困らせることもあったように記憶するが、そこに過ごして40年近くも経ち、自分も人並みに郷愁とか懐旧の情とかいうようなものを感じるようになると、瀬戸内海に近い、あの古めかしい城下町で、善良な近隣の人々と仲間に囲まれて中学後半から高校時代を過ごせたことは、何にも替え難い幸せなことだったと思われてくる。それが、どのような形で今の自分に生きているかは分からないが、間違いなくそうなのである。その価値は、今、同窓会や昔の仲間と関わりを持とうが持つまいが何も変わらない。絶対値として私の内にある。