完結した「学問」世界



 石巻は38センチの雪。91年ぶりだという。朝起きた時にはまだ降り続いていたので、景色もよく見えなかったが、昼頃からは晴れて絶景となった。それでも、居間で風景を眺めながらのんびりコーヒーを飲んでいるわけにはいかない。雪かきを始めると、量が半端でない上、雪を捨てる場所に困り、汗をかきながら、半日がかりの重労働となった。明日の筋肉痛が恐い。

 1月7日から始まった我が家の太陽光発電は、雪が積もると日が照っても発電しないことがよく分かった。午後、雪が少し滑ってパネルの一部が露出し、発電を開始したが、微々たるもので、わずか0.2kwhで1日を終えた。これは困る。

 

 話は変わる。

 昨日は、午前中、仙台の東北大学に行っていた。「中国現代史」に専門替えを宣言して書き始めた私の第4論文が、めでたく、先月発刊の『集刊東洋学』(中国文史哲研究会編)という学術雑誌に載った。その合評会を開催するというので、出掛けて行ったのである。過去3作は「東洋史」関係者が査読をしてくれていたのだが、今回は「中国文学」の担当に変わった。私は「中国哲学」の出身である。もともと、中国学というのは、史学・文学・哲学の境界がはっきりしない分野なのだが、それでもこれは珍しいと思う。いろいろなことに手を出して、一見マルチ的でありながら、実は何一つ十分にできない「よろづや(八方美人とも言う)」である私の人となりを象徴しているようだ。

 ところで、今回の『集刊東洋学』には、4本の論文(論説)と4本の書評が掲載された。合評会では、論文だけが検討の対象となる。大学院生数名と、助教、教授、合計で15名に満たない小さな会である。なんだか、いつになく低調な感じがした。大きくもない教室でやっているにも関わらず、報告者(コメンテーター)4名のうち2名は、声が小さくてよく聞き取れなかったし、質問も先生からがほとんどだった。論文の検討という作業を通して、何かを学ぼうという雰囲気はあまり感じられない。自分の学生時代を思い出すと、偉そうなことは言えないのだが、わざわざこのように世の中の役に立たない学問をしているのだから、せめてもう少し楽しそうにやってくれないかなぁ、と思った。

 役に立たないと言えば、そもそも非常に狭い世界なのである。論文はともかく、書評で取り上げられた著作など、関係者の間では、「深い学識に満たされたすばらしい労作」などと語られるのであろうが、では一般人で一体どれだけの人がその作品や内容に接するかと言えば、限りなくゼロに近いだろうと思う。つまり、関係者の内部で全ては完結しているのである。

 さて、ここで学問の意味について考えてしまう。学問をあまり有益性を物差しにして考えるのはまずい。一見無益な学問でも、発表されたはるか後に突然その価値が見出されたり、他の学問的成果と結び付くことで、大きな価値を帯び始めることがあるからだ。有益性というのは、多くの場合「目前の有益性」に過ぎない。だが、理系の学問ならそれは正しいが、文系の学問というのが果たしてそのとおりかどうかは怪しい。おそらく、理系に比べると、将来的に価値を帯びる可能性は格段に低いであろう。無益な学問をしている人がこの世にいることは、世の中を豊かで奥深いものにするために必要だが、それはごく少数でいいような気がするし、その人たちにも、自分の「学問」の価値に対する問題意識は持っていてもらわなくては、と思う。

 「温故知新」という言葉は有名だ。過去のことを学ぶことによって、今を生きる知恵を獲得する、という意味であろう。学問をすることで得られた知識自体にはたいした意味がなく、それを「応用」もしくは「当てはめ」し、現在に力を持って初めて知識に意味が生じる、という発想だ。9割がた正しいと思う。そして、言葉こそ有名で、言い古され、自明の感があるにもかかわらず、その内容を肝に銘じている人は多くない。

 とりあえず、私は自分の学問を「道楽」だと思っている。同じ「道楽」なら、パチンコに時間を費やすよりは多少健全だろう、というくらいの気持ちである。だが、これは高校教員という仕事が他にあるから許される考え方だと思う。現場があるからこそ、「学問」が生きるところには、自分が意識していなくても生きるであろう。

 歴史を学べば、その知識や、歴史を学ぶ上で培われた時間的・距離的に遠くを見る能力、気分ではなく事実に即して考える思考法といったものを、今の社会を批判し、何か建設的な提言をするために用いなければならないのではないか?さほど難しいことではない。自分たちの「学問」の外の世界、すなわち今の世の中と接点を持つことが、自ずから「学問」を有益なものに変えるはずだ。

 学術雑誌の中身といい、合評会といい、今に始まった話ではないに違いないが、今回、社会と隔絶され完結した世界であることがひときわ強く感じられたので、少々思う所を書いておいた。