ほのぼの平和な笑い



 2月15日に、息子の小学校入学に備えて、我が家の2階の大規模な模様替えをした話は、その翌日に書いた。その後、それだけでは不十分だ、ロフトや押し入れのがらくたもこの際整理した方がいいぞ、という話になった。着手したのは、先月末日である。

 こちらは、模様替えどころではない大仕事となってしまった。出てくる物はほとんどが子供用衣類なのだが、八畳間に大きな山が出来るほどの膨大な量である。どうやら、人から「古着いらない?」みたいなことを言われた時に、豪邸ではないが、住人の頭数の割には広いのをいいことに、手当たり次第にもらってきては、整理も使用も出来なくなって、押し入れとロフトを占領するようになった、ということだったと思う。状態はすこぶるよろしい。

 何しろ、我が勤務先では、過去1年余りで10人以上の子供が生まれた。ある人が驚いていたが、過疎化に苦しむどこかの小学校の児童数を上回る数の赤ん坊が、職員数60人あまりの職場で、たった1年の間に生まれたのである。職場で、誰か赤ちゃん用の古着をもらってくれないかなぁ、と声をかけて歩いたところ、何人かが名乗り出てくれた。そこで、じゃあ、学校で展示配布会をやるか、と言ったものの、やがて、我が家の古着の量はトラックで運ばなければならないレベルであることが判明した。職場での展示配布会はあきらめ、欲しい人は我が家に来てもらうことにした。

 日時を3回設定し、その第1回は、卒業式代休の3月2日(月)であった。4家族が来てくれた。そのうち3人は、昨年10〜11月の1ヶ月間に生まれたほぼ同い年である。

 我が家の居間に布団を1枚敷き、ごろごろと3人を並べて寝かせる(転がす)と、そのあまりのかわいらしさに、これだけで盛り上がる。やがて、1人が泣き始めると、他の赤ん坊がつられて泣き始め、鳴き声の合唱となり、負けじと声を張り上げる子も出てくる。集まった親たちは大笑いだ。

 なんという平和で邪心のない泣き声であり笑いであろうか、と思う。と同時に、世の中では、子供の泣いたり遊んだりする声が、騒音として問題になることもしばしばであるということを思い出して、不思議な気持ちになった。もちろん、泣いたり騒いだりすることが子供の常であり、どんな大人もそういう時期を経てきていることを思う時、子供の声を騒音だとするのは、なんとも身勝手なわけで、その「不思議」は憂鬱なニュアンスを含む。

 いや、身勝手だというのは理屈の世界である。自然なのは、子供の声を未来へ向けての希望として感じることであり、その無邪気さに心癒やされるということであるはずだ。自然から遠離り、結婚することや子どもを産むといった生物としての基本でさえも、その意味を考えたり、人生選択の自由といった問題として捉えたりすることで、スムーズには出来なくなっている人間である(→私の少子化考)。子供の声を騒音と感じるなど、当然と言えよう。

 それはさておき、集まった人たちは、また子連れで集まれる機会があるといいね、と言いながら、段ボール1個分くらいずつの古着を持って、いい笑顔で帰って行った。

 今日(高校入試)の夕方は第2回。今度は2人が父親だけで来て、やはりそれぞれ段ボール1個分くらいずつ古着を持って帰ってくれた。それでも、我が家の古着の山は減ったような気がしない。今週末の土曜日は、午前中に最終回を行うけれど、結局、最後には大量に捨てなくちゃダメなのかな?と心苦しく思いつつ、いい方法を考えているところである。