公共の精神

 ようやく涼しくなった。湿度も下がって、我が家から田代島、網地島がくっきり見える。
 昨日は、労働金庫労金)主催のバスツアーに参加して、息子と楽天戦に行った。主催者である労金推進委員会というのが、いったい何を「推進」するところかは知らないが、8月上旬に「宮城高教組宮城水産高分会」に会員宛の案内状が来たので、申し込んでいたのである。大人2000円、子供1000円で、石卷駅から球場まできれいなバスで連れて行ってくれて、三塁側内野席の切符と球場内商品券1人1000円分が付き、なおかつ車内でビールやおつまみがたくさん出て、ビンゴ大会で大量の栗と楽天タオルを当てたのだから、けっこうなツアーであった。今年はなぜか利府球場の2軍戦がないので1軍のみ、生命保険の抽選で当たった切符で5月に交流戦(対広島)を見に行き、昨日で我が家のシーズンは終了。プレー自体は素晴らしいのだけれど、やっぱり1軍の試合は選手との距離が遠く、球場ルールが厳しく(高価なごみの実質的押し売り)、演出過剰で騒々しく、野球以外の要素で私は好きになれない。
 直射日光の当たる球場はとてつもなく暑かったが、中盤から雲が出てきて照明も入り、ここからは快適に野球観戦が出来た。楽天は負けたが、息子は大谷のホームランを2本とウィーラーのファインプレーを2回見ることが出来てご機嫌だった。敵のホームランで嬉しくなるというのは、スタープレーヤーという存在のすごさを物語っている。私は、福山に少し感激した。テレビで見る時は、「大丈夫かなぁ?」と少し冷たい目で見ているのであるが、真横からその投球フォームや球筋を見ていると本当にダイナミックで美しい。1軍で60試合以上も登板の機会があったというのは、やはりそれなりの実力があってのことなのだ、と思わされた。
 話は変わる。いささか手前味噌な話もあるがご容赦を。
 先日、台風10号が来た時の話は書いた。当日の朝、たまっていた可燃ゴミを出そうか出すまいか、迷ったあげくに、我が家では出さないことに決めた。危険な台風が来るということで自分たちの職場は半ば休みなのに、ゴミ収集車にはいつも通り仕事をしろというのが身勝手に思われたのと、必ず朝9時に車が来るならともかく、遅くなれば、その間にゴミが飛ばされたり、多くの水分を含んだりする可能性があったからだ。だいたい予想はついていたが、そんなことを考えた家はほとんど無かったと見えて、ゴミ収集所にはいつも通りの大きなゴミの山が出来ていた。
 その翌日、私は石巻市の歩道管理の話を書いた。6月に私がお願いをして撤去してもらった、日和大橋西たもとの泥が、今回は私がお願いする前に撤去されたという話であり、他にも歩道の不都合はわんさかある、という話である。しかし、その後、台風の時のゴミの話なども思い出しながら、ふと思ったことがある。
 歩道の真ん中に電信柱が立っているとか、歩道が工事途中で長く放置され、ぶつ切れになっているとかいうのはともかく、歩道に雑草が覆い被さっていたり、どこかが陥没して水たまりが出来ていたりした場合、昔は、地域社会によって定期的に行われていた「普請」の時に、その土地の住民によって整備されていたのではなかっただろうか?それが、地域社会の衰退とともに行われなくなり、代わって、何もかもを行政に押しつけるようになってきた。
 どうも、台風の時にゴミを出す感覚と、公共の整備はすべて行政の責任というのは、根が同じであるように思われる。多少の極端を覚悟で言えば、地域社会は自分たちが作り守るもので、行政にも多少のサポートはしてもらう、と考えるのか、安全・快適な生活環境は行政が作ってくれるもので、私たちはその利用者だ、と考えるのかである。学校でもそうだが、見たところ、行政の仕事は増え続けている。仕事が増え得れば職員は増やすべきで、そのためには税収を増やさなければならない。だが、大半の人は増税に賛成しない。身勝手に思える。目先の利益を追求して、環境破壊を招いた精神も同じこと。結局のところ、全ては万事である。