再び「佐村河内守」



 分野・種目に関係なく、「一流」大好きの私は、オリンピックも大好きだ。今回は、時差の関係で、なかなか生では見られないが、なぜかゴールデンタイムに生中継の多いカーリング、本当に面白いなぁ。やはりスポーツは、ルールが単純で、勝負が客観的にはっきり分かるものがよい。

 メダルに対するこだわりはあまりないのだが、「一流」を極めた証拠であるから、畏敬すること人後に落ちない。が、羽生結弦選手の金メダルについては、余波に関する報道が少し気になった。

 彼がショートプログラムの演技で使ったのは、ゲーリー・ムーアというイギリス人の音楽らしい。羽生選手が優勝した後、ムーアのサイトに通常の300倍ものアクセスが記録され、CDの売上が急激に伸び、目下、品切れで入手困難なのだそうだ。

 サイトへのアクセスが急増したと言えば、300倍とまではいかないにしても、「佐村河内守」事件の時には、私のこのブログも同様の現象が起きた。ところが、それによって私の著書がよく売れるようになった、という話は聞かない。ムーアの音楽でなければ羽生選手が優勝できなかったとは思えない。一方、私の文章はこのブログでも著書でも私によるもので、関係の深さは羽生=ムーアの比ではない。にもかかわらず、である。なんだか不公平な感じがする(笑)。

 ところで、「佐村河内守」と言えば、先週の土曜日、我が家のDVDプレーヤーの中に消去されずに残っていた交響曲「HIROSHIMA」を見た(聞いた)。全然心に響かなかった、もう見ない、と以前(昨年8月25日)書きながら、今回見てみようと思ったのはこんな事情による。

 多くの人が、当時信じられていた「佐村河内守」像の影響を受けて、その曲を素晴らしいと思ったのとは逆に、私の場合、彼に関する報道にいかがわしさを感じた結果として、「だまされるな」という思いが働き過ぎていたということはなかっただろうか?「佐村河内守」の虚像にだまされて熱狂するのも、いかがわしさを感じることで心にブレーキをかけるのも、邪念を持って音楽に向かうという点では同じことだ。今、そういう心配なしに、身構えることなく音楽を聴けば、あるいは素晴らしい音楽として心に響くかも知れない、と思ったのだ。

 さて、演奏会シーンの前に放映された「佐村河内守」の生活や、演奏終了後の熱狂的なスタンディングオベーションに彼が応えている場面は、印象が「いかがわしげ」から「滑稽」へと激変した(当たり前)。まじめで好意的なアナウンサーの口調まで含めて、正に噴飯ものである。

 曲の印象は・・・幸か不幸か、変わらなかった。70分あまり聴き通すのは、なかなかに忍耐が必要である。曲の印象が変わらなかったことで、自分はやはり純粋に音楽に向き合うことができていたのではないか、という安心は感じた。しかし、だからといって、私はこの曲を「駄作」と断定したわけではない。そんな審美眼は、私にはない。価値はあくまでもひとつまみの天才と歴史によって決められるのである。もっとも、「佐村河内守といういわく付きの作曲家の曲として高く評価されながら、ゴーストライターの作と分かり、社会問題となった有名な曲」という生き残り方もある。人が何を面白がるか、それも私にはよく分からない。