佐村河内の検証記事・番組



 今日もやっぱりウグイスは鳴かない。昨日の続きのような話。

 3月13日に、「佐村河内守」報道に関する『毎日新聞』の検証記事を読んだ。16日には、NHKによる検証番組(「とっておきサンデー」)を見た。どちらも感心しなかった。どちらも、本当に自分で作曲しているのか、本当に耳が聞こえないのかという点について、実際に楽譜を書く場面も見ずに、なぜ佐村河内氏の話に納得してしまったのか、という点について語っているのだが、掘り下げが浅いぞ、という気がした。佐村河内氏の言うことに納得してしまったのは、いかにも製作担当者・記者個人が甘かった、という感じだ。

 私によれば、彼らが佐村河内氏の話を信じてしまったのは、何とかして番組・記事にしたい、という非常に強い願望があったからだ。なぜそのような願望を持ったかと言えば、視聴者・読者が、耳の聞こえない、被爆二世の、被災地の少女と交流のある作曲家が、大きな交響曲を作ったという話を喜ぶことを感じ取っていたからだ。NHKのような公共放送で、視聴率というものがどれだけ重要視されているのかは知らないが、自分の作った番組・記事を視聴者・読者が喜んでくれるというのは嬉しいに違いなく、プラスの反響があれば、社内での自分の立場をよくすることにもなるかも知れない。本当の根っこは、そのような読者や上司の顔色を伺う点にこそあったに違いない。

 NHKはその点に一切触れず、『毎日新聞』では、記者自身が「「物語」に溺れてしまった」ような書き方をしているが、おそらくそれは違う。あるいは、記者が「物語」に溺れるには、単に彼女の佐村河内に対する感情というのではない、理由があるのである。NHKや『毎日新聞』がそれに気付いていないのか、気付いてはいるが、あまりにも情けないから言えず、記者の個人的責任のような形にしてごまかしているのか・・・それは知らない。

 これは森達也氏の姿勢の対極である。しつこくもう一度高村光太郎流に言えば、「原因」を軽視し、「結果」ばかりを気にしたことが、虚偽の報道を生んだのだ。私はこれを報道だけの問題だとは思わない。人の顔色を伺うことから「哲学」は生まれず、「哲学」が生まれないということは「真実」が見付けられないということであり、「真実」のない世の中は、やがて必ず「破綻」に至るのである。