ウグイスは今日も鳴かなかった。さて、3月12日(→こちら)の続きのような話である。
森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(以下『訊きたい』と略)を読んだ後、続けて彼の『A3』(集英社インターナショナル、2010年)という本を読んだ。そして、森という人が、なぜこれほどまでにしっかりと「哲学」できるのかということについて、あることに気が付いた。それは、私が「哲学」を意識しているのとは違い、彼はまず第一に「事実」を徹底的に大切にしている、ということである。
『A3』は、オウム真理教の教祖・麻原彰晃についてのレポート(ノンフィクション)である。裁判で、麻原彰晃という男が、なぜ何をしたのかがほとんど解明されないままに判決が出たことに驚き、裁判で明らかにならなかった「事実」を知りたいと願う。森は、自分自身が見聞きしたことだけを確かであるとし、それによって明らかになったオウム真理教徒や麻原彰晃の姿(=事実)が、世の中で一般に行われている報道と全く違うことに気付き、愕然とする。両者に大きなズレのあることが、現在の社会のあり方の問題を意識させ、それが批判の対象となる。
『訊きたい』においても同様である。第2章第7節で、森は麻原彰晃、ウサマ・ビンラディン、そして『朝日新聞』阪神支局で「赤報隊」に殺された小尻知博記者に触れ、最後の方で次のように述べる。
「ビンラディンは武器を持たないまま娘の前で殺された。麻原は精神が崩壊したまま被告席に座らされ続けて死刑判決が確定した。悪は世界から消滅させること。それが当然の前提になっている。悪とは何か。なぜその悪は生まれたのか。今後も同じような事件が起きる可能性はないのか。そんな煩悶がまったくない。
もしも小尻知博記者を殺害した男が目の前にいたとしても、にやにやと笑いながら「半日分子はみんな死刑にすべきなのだ」と嘨いたとしても、まず僕は質問すると思う。銃はどのように入手したのか。共犯者はいないのか。その思想はどのように形成されたのか。資金はどうやって工面したのか。殺害は計画的に行ったのか。その後はどのように逃走したのか。(中略)
思い切り殴るのはそのあとだ。」
森達也氏の人物紹介として、巻末には「映画監督、作家」と書く。ただ、「映画監督、作家」とは言っても、彼が撮る映画、書く文章は時事問題ばかりであり、その意味では、やはり「ジャーナリスト」が分かりやすいように思う。彼の目はジャーナリストの目だ。いや、ジャーナリストが本来持っていなければならない目だ、と言う方が正確だろう。
私は、自ら報道の正確さを検証することができないので、状況や文章全体の整合性などによって、その当否を感覚的に判断するしかないのだが、森氏の見解・指摘には間違いがないように思う。
そして、あくまでもその前提に立てば、マスコミの報道や裁判所の対応はまったくデタラメである。人権保障、適正手続きの厳守において、もはや民主主義に基づく法治国家の体を為していないと言っても過言ではない。その矛先が自分に向けられたら、と思うと、本当にぞっとする。
では、マスコミや裁判所がなぜそのようなデタラメをするのかと言えば、私の目には、彼等がともに大衆のご機嫌伺いをし、その顔色を見ながら報道し、裁定を下しているからだと見える。一昨日まで多用した高村光太郎の言葉「原因(動機)に生きる、結果(思想・評価)は知らない」を借りれば、「原因」を軽視して「結果」ばかりを気にしている、と言ってよい。
世間一般が、「オウム真理教は極悪非道だ」と感覚的にヒートアップしている時に、裁判所は当然のこと、マスコミもそれをたしなめ、本当に「極悪非道」であるのかどうかを検証し、悪の中身と背景とを冷静に分析しなければならない。マスコミの本来の使命とは、大衆を喜ばせることではなく、民主主義を健全に機能させるための正確な情報を提供することにあるはずだ。にもかかわらず、彼らは大衆に迎合している。これが哲学のない世界である。
森氏のような姿勢を取ると、世間からは冷たく扱われ、作品は売れない、ということになるらしい。氏がそれを甘受し、「事実」にこだわり続けるのは、ジャーナリストとしての使命感や誇りがあるからだ。やはり、自分の内にある「原因」を大切にすることからこそ、「哲学」は生まれるのである。