野口剛夫氏と佐村河内守

 東京に出かける前日、新聞で野口剛夫という人の訃報を目にした。音楽学者、作曲家、指揮者だとある。私はよく知らない人だ。作曲家・別宮貞雄(べっくさだお)に師事し、後に養子になったという経歴も特異なものとして印象的だったが、2013年に佐村河内守ゴーストライター騒動の端緒となる論考を『新潮45』に発表した、という部分が更に気になった。
 私は、電子書籍で容易に入手できる2013年11月号の『新潮45』に掲載された、「『全聾の天才作曲家』佐村河内守は本物か」という文章を読んでみた。電子書籍で26頁だが、1頁当たりの字数が少ないので、たいした文字数ではない。あっという間に読める。
 その中で氏は、「全聾の天才作曲家」「現代のベートーヴェン」といった紹介のされ方に驚きつつ、実際に音楽を聴いてみて、「本当なのかな?」と思ったと書く。「本当なのかな?」とは、「本当に作曲者は全聾なのだろうか?」「天才なのだろうか?」「ベートーヴェンに匹敵するのだろうか?」という意味だろう。その上で、「私のような疑問を感じる人も実はかなりいるのではないか」と書く。
 氏は、そのような「疑問を感じる人」が、「身体障害者被爆二世への差別と受け取られたり、ダントツのセールス記録へのやっかみであると思われるのを恐れたりで、発言しづらいということもあるのかもしれない」と続ける。
 私が佐村河内守という人とその音楽に対する疑念を表明したのは、2013年8月25日であった(→その記事)。主旨としては野口氏の文章と大きく重なり合う。野口氏の方が、佐村河内の著書を読んで書いている、楽曲についての説明が詳しいといった点で、少し入念な感じがするだけだ。『新潮45』の11月号が、何月何日に出たかは知らないけれども、間違いなく私の方が早い。私の作文が、マスコミや音楽評論家によって「佐村河内守ゴーストライター騒動の端緒となる論考」と認められなかったのは、執筆者のネームバリューの違い=発表媒体の違いによるだろう。もしかすると、私の記事を読んで、野口氏は『新潮45』の原稿を書いたかもしれない(笑)。
 私が野口氏の文章を読んで特に評価した、と言うか、自分が触れなかったことを少し後悔したのは、長木誠司氏や野本悠紀夫氏が楽曲の分析に基づいて佐村河内を評価していたことに対して疑問を突きつけた点だ。
 野本悠紀夫というのは、佐村河内の曲を絶賛し、その普及に功あった音楽学者である。佐村河内の正体が暴露された後も、失脚することなく(笑)、某大学音楽学部の教授の地位にある。NHKの番組でではなかったかと思うが、野本氏が、交響曲に描き込まれた感情には音型の裏付けがある、みたいなことを解説していた。私はそれをいぶかしく思いながら聞いていた。ある音型(モチーフ)で特定の状況や感情を表現するということはよく行われることである。しかし、そのような音型を使えば、必ず特定の状況・感情を上手く表現できるかと言えばそんなことはない。バッハの「ため息」音型にしても、「十字架」音型にしても、バッハが使うから能弁なのである。したがって、ある音型を使ったことが、音楽が感動的であることの根拠になどは決してならない。
 おそらく、そのような点を問題としてだろう。野口氏は「佐村河内ブームは音楽以外の力を大いに動員した結果であると考えるので、楽曲分析だけではその解明はできないと思う」と書いている。これはだいたい正しい。あえて言えば、解明できないのは佐村河内ブームだけではなく、音楽それ自体の価値(人に感動を与える力)である。
 私は野口剛夫という人をよく知らないので、その死を悼むというのはそぐわない。ただ、小さな訃報から佐村河内騒動に対して氏が果たした役割を知り、その発端となった文章を読んで面白かったので、少し触れておこうという気になった。世間の評価に振り回されて目を曇らせることのない、自由な精神に合掌。