とてもぜいたくな1日半(後)

 演奏会場から出る時、主催者から「平居さん、打ち上げ来ますよね」と声を掛けられた。「え、明日もあるのに打ち上げですか?」と答えると、「メシですよ」と言われた。
 のこのこ付いて行ったのは、ミシュランで星こそないものの、「ビブグルマン(価格以上の満足感が得られる)」に認定されているという居酒屋風のイタリア料理店だった。メンバーは、演奏者の3人と主催者、某音楽評論家、主催者の知人と私のたった7人。最初の30分だけ、NHKの女性ディレクターもいた。
 このメンバーが小さなテーブルを囲んで歓談する。もっとも、私にしてみれば、野球少年がメジャー・リーガーと同席しているようなものである。分かってもいないのに分かったような顔をして余計なことを話す気にもならず、ドイツ語と日本語が半々ということもあって、なんだかビールよりも場に酔った感じでちょこんと座っていた。ステージ衣装を脱いだ演奏家から、日頃は私たちの目には絶対に見えない日常の話を聞くのは楽しかった。料理も最高。世の中にこんなぜいたくがあろうか。
 23時過ぎにお開きとなり、私は町田に泊まった。
 昨日は、小田急江ノ島線に乗り、鵠沼(くげぬま)海岸に行った。ここは、現在の中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者・聶耳(ニエ・アル)が、1935年7月17日、遊泳中に亡くなった場所で、現在は聶耳を悼むモニュメントが建てられている。一度訪ねてみたいと思いつつ、昨日まで実現していなかったのだ。
 ある方に道案内をお願いした。岡崎雄兒先生(79歳)だ。東北公益文科大学中京学院大学の先生をされていた方で、聶耳研究の第一人者。その研究は、2015年、『歌で革命に挑んだ男 中国国歌作曲者・聶耳と日本』(新評論)という本になった。しかも、この本は中国語に翻訳されて、『聶耳伝』(新星出版社、2019年)という名で中国でも受け入れられている。現時点で聶耳伝の決定版と言ってよいだろう。しかも、先生の著書は、日本滞在中の聶耳や、死に関する考察が詳しい。聶耳碑の案内をしていただく方として、世界中探してもこの先生以上の人がいるわけがない。幸運にも、学術の関係で知遇を得て、先生が鵠沼の近くにお住まいであることを知っていた私は、コロナ前から、一度道案内をお願いしていたのである。それがこのたび実現した。これまた何というぜいたく。
 ご高齢で、腰痛がひどいと言いながら、先生はお元気であった。せっかくだから「東屋(あずまや)」という旅館の跡に寄りましょうと言って、最初は東屋跡に連れて行ってくださった。さほど遠回りではない。
 気候が温暖で、風光明媚な場所とあって、かつてこの地にあった東屋には、多くの文化人が逗留していたらしい。現存はしておらず、今は民家になってしまっているが、その土地の隅に、2001年に藤沢市教育委員会が建てた説明看板と石碑がある。それによれば、ここに逗留した主な文化人には、与謝野鉄幹・晶子夫妻、志賀直哉谷崎潤一郎斎藤茂吉佐藤春夫などがいたらしい。
 そこから、立派なお屋敷の並ぶ住宅地を少し歩くと湘南海岸に出た。とても開放的で長い砂浜だ。少し霞んではいるが、富士山がよく見える。海にはおびただしい数のサーファー。平日の午前なのに・・・。
 歩道橋を渡ると、そこが聶耳碑であった。1954年に山口文象によってデザインされた石碑がある。もっとも、元々はこの場所ではなかったのだが、1958年の狩野川台風で流失したため、1965年、同じデザインで少し違う場所に再建されたものである。すぐ西側には引地川の河口があって、聶耳はそこで死んだとされている。もっとも、岡崎先生によれば、聶耳が死んだ時代は、引地川河口ももう少し西にあったそうだ。 
 岡崎先生の著書を読むと、「義勇軍行進曲」が正式に国歌となるに至った長いプロセスがよく分かる。暫定国歌となってから正式な国歌として憲法に明記されるまで50年以上。その間に、日中の国交が回復し、藤沢市と聶耳の出身地・昆明姉妹都市になるなど、多くの出来事があった。聶耳碑もそれらとともに変化を続けた。1981年には聶耳記念広場が整備され、1986年には菅沼五郎によるブロンズ製肖像レリーフと、それを飾るための碑板が建てられた。昆明市から贈られた詩碑、郭沫若秋田雨雀といった人の言葉を刻んだ銘板など、多くのプレートが、広場を囲む壁には埋め込まれている。
 残念なのは、レリーフを飾る高さ2.5mの大きな碑板(壁)が、丈夫な半透明のビニールカバーで覆われていて、レリーフがよく見えなかったことである。いわゆる「嫌中派」というような人によって、ペンキなどによる汚染、破壊行為が発生するため、そのような措置をし、イベントの時だけそれを外すそうだ。
 1954年に有志がお金を出し合い、藤沢市も協力して最初の聶耳碑を作った時、多くの日本人は新しい中国に対して希望と憧れとを感じていた。それは一般庶民が大切にされる理想の国だったのだ。ところが、天安門事件をきっかけとして、日本人の対中感情は急激に悪化する。その結果がレリーフ碑板のビニールカバーだ。
 湘南海岸の防潮堤に座って、先生の研究の道筋や聶耳に関する資料のことなどをあれこれとお聞きした後、私は先生と別れ、江ノ島に少し寄り道してから、湘南モノレールで大船に向かった。あとは常磐線特急「ひたち」で帰るだけ。本当に夢のようにぜいたくないい1日半を過ごした。