ガイドブックにない桂林(3)



 桂林に関する様々な文献の中で、最もよく見かける地名は「桂西路」である。ここは、書店(出版社を含む)が集中していた地域であった。今回の連載の第1回で見たとおり、抗日戦争期に桂林が繁栄した重要な理由のひとつに、紙の供給が豊富であったことによる出版業の隆盛があった。だからこそ、「桂西路」は重要であり、話題に上ることも多かった。桂林市文化研究センターと広西桂林図書館によって編集された『桂林文化大事紀』(漓江出版社、1987年)という本は、抗日戦争期の桂林に関する百科全書と言うべきとても便利な本であるが、それによれば、当時の桂林には200の書店・出版社が存在し、そのうち50が桂西路にあった(率が高くないようだが、場所未詳というものが30ある)。夏衍の地図によれば、この道路は今の「解放西路」に当たる。今は書店など一軒もない、片側2車線+側道の大きな道路だ。

 ただ、今の地図を見ていて、その解放西路に「広西省芸術館」という名前があるのが目に止まった。「広西省芸術館」の存在は私も知っていたが、当時のものが残っているはずもない。しかし、「芸術館」という名称はあまり一般的でないので(コンサートホールなら音楽庁、劇場なら劇場か戯院、美術館は美術館がおそらく一般的)、昔の芸術館と何か関係があるのではないかと訪ねてみることにした。

 行ってみると、外観は当時の写真と同じではないと思うが、似ている。或いはそれなりの史料に基づいて復元したつもりかも知れない。壁面には「1987年5月31日 桂林市文物保護単位」というプレートが付けられ、更に別のプレートには、次のように書いてあった。

「広西省立芸術館は我が国の著名な戯劇家・欧陽予倩が1940年3月に創始したものである。もともとは馬房背3号にあり、抗戦時期に一群の進歩的文化人が桂林に集まって設立した芸術組織であって、桂劇の革新と広西の戯劇・美術・音楽等の芸術事業の発展に対して積極的な作用を及ぼした。1944年2月15日、館長・欧陽予倩は我が国抗戦戯劇運動を発展させるために、この芸術館大ホールを完成させた。党の指導と組織の下に、芸術館大ホール落成の日に、西南七省三十あまりの進歩的戯劇団体、千人あまりを組織して、3ヶ月にわたる全国的にも空前の戯劇公演を行った。(以下略)」

 これによれば、芸術館は、私が知る1944年完成の建物とは別に、1940年から存在していたことになる。上の書き方からすると、それは建物ではなく組織であったようだ。これは初耳である。本当かどうか、調べてみないと分からない。後半に出てくる3ヶ月にわたった戯劇公演とは、「西南劇展」のことだ。コンクールとも交流会ともつかないこのイベントについては、阪口直樹氏による論文「「国統区」文化活動における「西南劇展」の位置」(同志社大学言語文化学会編『言語文化』第1巻第1号、1998年)がある。この論文はおそらく、日本で私よりも早く桂林の現代史における特殊性に言及した唯一のものである。

 現在、この建物は保護物件となっているらしいが、復元された建物にたいした価値はないだろうと思う。大きさが、現代の需要には対応できないからか、長く使われた形跡がない。壁面に掲示された芝居の広告は、3年前の公演に関するものであった。

 解放西路の途中から北に向かって太平路という細い道が延びている。当時と今で道路の名前が変わっていない。ここには郭沫若社長、夏衍編集長の「救亡日報」社があった。その建物が残っているらしいことを、私は黄偉林の『歴史文化名城桂林』(広東人民文学社、2010年)という本で知った。そこには「太平路12号」に現存するという救亡日報社の写真が載っている(『豊碑』にもある)。ところが、私は当初その建物をどうしても見付けることができなかった。桂林を離れる直前に、少し時間に余裕があったので、もう一度だけ探してみようと訪ねてみて発見した。なぜか「太平路4号」にあった(救亡日報社が太平路12号にあったというのは、全ての桂林関係書で一致しているので、最初の書籍で間違ったか、当時の12号が今の4号であるかだろう。ただし、私が当初この建物を見付けられなかったのは、住所が違っているからではない。以下のような形状の問題である。)。そこが「救亡日報社」であったことを示すプレートが壁に埋め込まれ、「文物保護単位」(文化財)であることを示す標柱も建っているが、とてもうらぶれた建物で、固く鍵がかかっている。もう久しく開けたことがない、といった感じであった。太平路の北に楽群路という道があって、これも当時と名称の変わらない道路であるが、当時をしのばせるものは何もない。

 もうひとつ訪ねたのは、張曙の墓である。張曙(1908〜1938)は政治意識も高い優秀な音楽家であった。現代中国においては、国歌作曲者・聶耳(1912〜1935)と人民音楽家・冼星海(1905〜1945)が過去の音楽家としては大切にされ、音楽分野で政治的な指導力を発揮した人としては呂驥(1909〜2002)の右に出る人はいない。だが、張曙がもしもあと10年か20年生きていたら、音楽・政治両面の評価を兼ね備えた人になっていたかも知れない。張曙は武漢の第三庁から移動し、長沙滞在を経て1938年12月10日に桂林に着いたが、それからわずか2週間後の12月24日、日本軍による最初の桂林空爆が行われた際に、わずか30歳で娘とともに犠牲になってしまった。死亡した場所がどこであるかはよく分からないのだが、おそらく市の中心部、榕湖の界隈であったと思われる。しかし、その墓は、七星岩の近くに作られた。今の桂林地図にも、張曙の墓は載っている。七星岩の北側で、街の中心から20分あまり歩いた所にある六合圩市場という、一時代前の中国、いや、アジアの市場を彷彿とさせる懐かしく素朴な市場のすぐ裏手だ。郭沫若の揮毫によって、そこが音楽家・張曙とその娘の墓である旨が書かれている、なかなか大きく立派な墓だ。除草や掃除も丁寧に為されているようだが、この墓の存在、この墓に眠る張曙がどのような人物であるかを知っている人は、桂林にもほとんどいないようだった。

 この「知らない」というのは、今回、桂林を訪ねて最も衝撃的だったことである。弁事処という抗戦期桂林のシンボルを知らない。救亡日報社にしても張曙の墓にしても、すぐ近くに住んでいる人でさえ知らない。もしくは、墓の存在は知っていても、それがどんな人の墓であるかは分かっていない。『豊碑』を見ていると、当時の建物は残っていないにしても、いろいろと記念碑の類いはあるらしいのだが、弁事処の係員さえ、それらがどこであるのか知らない。今の市街地に、どのような遺構があるのかも知らない。「ない」ということが分かっている、というわけでもない。経済に貢献する可能性がないからであろう。一般の桂林市民にとって抗日戦争期は、王城が作られた明代よりも遠い世界である。

 せっかくだからと漓江に行った2日目を除き、1日半余りにわたって、暑い中を歩き回ったが、最もよく分かったのはそのことだった。(完)