「延安」旅行案内(5)・・・橋溝の魯迅芸術文学院旧址(後)



 橋溝には、1934年に完成した立派なゴシック式の教会がある。スペイン人の神父によって建てられたらしいが、当時の延安にはまったく場違いなものだったと思われる。この教会は、1938年9月に共産党の拡大第6期6中全会の会場として使用された後、魯芸が移転してくるまで放置されていた。

 バス停に着くと、目の前にこの大きな教会が見える。門を入り、教会前の広場を横切ると事務室があって入場料30元を払う。私が訪ねた時には、中国人も含めて訪問者は誰もおらず、事務室以外の建物にはすべて鍵がかけられていた。門の脇の小さな守衛室のような建物にいた老人が呼ばれ、次々と鍵を開けてくれた。老人によれば、この時、訪問者がいなかったのは偶然であって、日頃はそれなりに観光客があるそうだ。

 事務室のある細長い建物が博物館になっていて、魯芸の歴史や、日常生活について、通り一遍の解説が為されている。ホールとして使われていた教会は、煉瓦造りで、ステンドグラスこそきちんとした細工が為されていないものの、なかなか堂々とした大建築である。教会の西側に設置されている鉄の扉を開けてもらい、入ると中庭がある。運動場か畑かだったに違いない。その西側は山を崩した崖になっていて、煉瓦で土止めがされ、「緊張 厳粛 刻苦 虚心」と毛沢東が1940年に定めた校訓が書かれている。書体は毛のものだが、当時のものかどうかは分からない。中庭の北側には、煉瓦と漆喰で作られた二棟の長屋がある。中央に通り抜けの通路があり、それによって系を分けている。各系に置いてある物品が当時のものであるかどうかも分からない。西側には、それとは別棟で「排練室(練習室)」の建物がある。音楽系や戯劇系で使ったのだろう。二棟を抜けて更に奥に進むと、突き当たりに少し小さめの長屋がある。東から順番に、厨房、総務科室、そして「冼星海居室」と並んでいる。

 私はこれを見た時、一瞬目を疑った。当時の魯芸の建物が全て残っているわけではないにしても、多くの魯芸教員の中で、なぜ冼星海の居室だけが残っているのだろうか?

 冼星海とは、国歌作曲者・聶耳とともに、現代中国で最も有名な作曲家である。魯芸の教員・学生の強い求めに応じて、1938年11月に延安に来て、魯芸音楽系の教授となった(1939年5月以降、主任教授)。1940年5月からソ連に出張すると、独ソ戦争のために帰国できなくなり、そのまま1945年10月にモスクワで客死した。1939年3月に作曲された代表作『黄河大合唱』は、建国前の中国の音楽作品の中で最も有名で、演奏の機会も多い佳曲である。訃報が延安に届いた際、毛沢東が「為人民的音楽家冼星海同志致哀」という言葉を贈ったことから、「人民音楽家冼星海」という特別な存在に祭り上げられることになった。冼星海の居室だけが残っているのは、このことと関係するだろう。

 しかし、当時、魯芸の教員・学生は、すべて窰洞に住んでいた。魯芸の東には「東山魯芸教員住宅区」という一地区があって、個性豊かな芸術家が、それぞれに装飾を施した窰洞が並んでいて、有名な場所であったらしい。冼星海もそこに住んでいたと考えるのが自然である。その日記(『冼星海全集』第1巻)には、橋溝に来て以降も窑洞に住んでいたことを示す記述がいくつか見られるし、星海が延安に来た当初、共産党の指示によって星海の付き人となり、後に音楽の弟子となった梁寒光は、魯芸が橋溝に移転した後も星海に従い、星海が住む窑洞の中で自らも勉強した上、部屋の中の見取り図を書き残している(「良師摯友」『広州音楽院学報』1982年第4期所収)。それは明らかに、二室からなる窑洞住居の構造である。魯芸旧址の「冼星海故居」は一室構造だ。そもそも、これほど職住接近が徹底していると、落ち着いて創作活動などしていられない。

 つまり、現在「冼星海居所」と書かれ、保存されている部屋は、明らかに偽物である。共産党が冼星海を特別視する余り、「参拝」のための場所として、居所を不明とするわけにはいかず、魯芸旧址の一角に、それをでっち上げたということだ。

 これは困ったことだ。魯芸旧址の冼星海居室が偽物であることがはっきりすることによって、他の革命旧址にある「○○故居」の類を、すべて本物かどうか疑わなければいけないからだ。

 延安は「革命聖地」である。人間でも場所でも、共産党によって英雄視・神聖視されてしまうと、異を唱えることが許されなくなり、伝説が作られる。おそらく、延安にはそうしてでっちあげられた名所旧跡が他にもあるに違いない。気を付けなければならないことである。