「延安」旅行案内(4)・・・橋溝の魯迅芸術文学院旧址(前)



 延安の市内バスは分かりやすい。市街地が山と川に挟まれて帯状に発達しているため、必ずバスはそこに沿って走るからである。街の中心から空港方面へ行く4路、5路、6路といったバスに乗ると、4キロ弱、15分ほどで橋溝の魯迅芸術文学院(魯芸)旧址に着く。

 共産党は古くから宣伝活動を重視していた。宣伝活動を重視するという組織としての決定も、1929年の古田会議にまで溯る。これは、文盲率の非常に高かった当時において、一般大衆に情勢や今後の方針を知らせ、団結を強め、戦意高揚を図るためには、歌や演劇、絵や版画というものに頼る必要があったからである。

 そのような文化芸術の質的向上のために設立されたのが、「魯迅芸術文学院」であった。開校式は1938年4月10日。この時は、延安市街地、北門の外側、雲梯山の麓にあり(この跡は、日本軍の空爆と建国後の新しい街作りとによって、完全に消滅した)、音楽、戯劇、美術の3学部(系)だけを有する「魯迅芸術学院」であったが、8月までに文学系が増設され、1940年6月に「魯迅芸術文学院」と改名された。1938年11月20日に最初の日本軍による延安空爆があり、大きな被害を受けると、1939年8月3日に北東郊外の橋溝に移転した(魯芸関係の書物では、その場所を全て「橋児溝」としているが、今夏の延安ではそれは通じなかった。現在の地名は「橋溝」である)。

 中国における魯芸研究の第一人者は王培元という人で、『抗戦時期的延安魯芸』『延安魯芸風雲録』(どちらも広西師範大学出版社)という2冊の本が出ている。これに『延安魯芸回憶録』(光明日報出版社)という回想集を加えると、魯芸のおよその姿を知ることが出来る。日本の書籍には、時折その名前が見えはするものの、あまりにも断片的で全貌を知るには不足が大きい。

 魯芸を、今で言う芸術大学だと考えるのは間違っている。確かに、文芸の質的向上を目指して作られはしたが、それは、文芸によってより効果的な政治的宣伝工作を行うことが目的であった。芸術は手段であって、それ自体が目的とはなり得ないのである。以下に示す魯芸の校歌(沙可夫作詞)は、この学校の性質をよく物語っているだろう(拙訳)。

 我們是芸術工作者,我們是抗日的戦士。

 用芸術做我們的武器,

 為打到日本帝国主義,為争取中国解放独立,奮闘到底。

 学習,学習,再学習。

 理論和実践密切連係,一切服従神聖的抗戦。

 把握着芸術的武器。

 這就是我們的歌声。

 唱吧,唱吧,高声地唱吧。

 我們是抗日的戦士,我們是芸術的工作者。

 (俺たちは芸術運動家、俺たちは抗日の戦士だ。

  芸術を俺たちの武器として、

  日本帝国主義を打倒するため、中国の解放独立を勝ち取るため、

  徹底的に頑張るぞ。

  学べ、学べ、もっと学べ。

  理論と実践は固く結び付き、

  全ては神聖なる抗日戦争のためにある。

  芸術の武器を握りしめろ。

  これが俺たちの歌声だ。

  歌え、歌え、大声で歌え。

  俺たちは抗日の戦士、俺たちは芸術運動家だ。)

 魯芸が今の芸大と違うというのは、目的だけではない。「芸術は長く、人生は短い」という言葉もあるように、芸術というのは長い精進が必要なものだが、物資が逼迫し、戦況が厳しかった当時の延安で、悠長なことは言っていられなかった。開校当初は、3ヶ月をひとつの単位とし、学習3ヶ月→実習3ヶ月→学習3ヶ月で卒業、というシステムをとっていた。実習とは、前線近くに行き、民衆や軍人に対して、芸術を使った実際の宣伝活動を行うというものである。ところが、前線を往復するのに3ヶ月では短すぎるとか、必要があればすぐに人材を派遣しなければならないといった現実の中で、制度を守ることは実質的に不可能であった。この後、魯芸のカリキュラムや組織構成を書類の上でたどることは可能であるが、それが本当にその通り実行されたのか、機能したのかを検証することは困難である。

 1939年6月、魯芸の学生の一部は、音楽系教授呂驥に率いられて、陜北公学、工人学校等の学生とともに延安を離れ、前線に近い阜平に華北連合大学を作った。文化輸出というだけではない。これには経済封鎖に苦しむ延安の「口減らし」という目的もあった。

 使命感に燃えて設立された魯芸であるが、芸術家にとって民衆工作はけっして面白いものではないという宿命的な問題があった。芸術の質的向上が暴走を始めると、民衆からの遊離という現象が起きる。この後、魯芸は必ずしも「発展」とは言えない道筋を辿り、1943年3月に延安大学、社会科学院、自然科学院、民族学院、新文学幹部学校の橋溝移転とともに、それらと合併することで独立を失い、1944年5月には、延安大学魯迅文芸学院と改称、1945年8月に対日戦争に勝利を収めると、11月中旬には延安を離れ、東北地区に移動した。延安には、若干のメンバーが残ったが、基本的にこの時点で、延安の魯芸の歴史は終わったのである。(続く)