「延安」旅行案内(3)・・・宝塔と日本労農学校(後)



 労農学校で生活していた日本人は、開校当初こそ十数名であったが、終戦時には350名に達した(ただし、状況が流動的で、人数の確定は難しい)。政治学、経済学、社会学、日本問題、中国語、時事問題等についての学習が行われていた。

 捕虜になった当初は、敵である中国人を恐れ、その寛容さを猜疑心を持って見ていた日本人であるが、中国共産党の人々による寛容で手厚い扱いを受け、規律正しく優秀な軍隊や組織を目の当たりにし、やがてその真情に気付き、感銘を受け、積極的に反戦活動(日本軍に投降を呼び掛ける、反戦劇を上演するなど)や食糧自給運動に取り組むようになった。そして、終戦後、日本に戻ってからも、国交回復前から日中友好に尽力した人が少なくなかった。それほど、延安で彼らが受けた感銘は大きかったのである。なお、彼らの反戦劇の取り組みについては、上記の書物の他、その活動をきっかけに生まれた中国人劇団との交流の様子も合わせて、肖紀という人物が書いた「戦闘劇社生活散記」(『中国人民解放軍文芸史料選編 抗日戦争時期第1冊』解放軍出版社)という手記に、短いながらも生き生きと描かれている。

 大門(料金所)から右手に歩いて行くと、労農学校の跡地(旧址)を経て、宝塔に上ることが出来る。大門からまっすぐ宝塔に上り、そこから旧址に下りることも可能だ。足に自信のない人は、電気自動車で宝塔まで上ることも出来る。歩いても、10分あまりだ。宝塔が建っているのは、頂上というよりは、山の中腹の平坦地で、延安の街がよく見える。更に足を伸ばせば、摘星楼という建物の建つ本当の頂上にも行くことが出来る。

 さて、実際に行ってみると、「日本工農学校旧址」と書かれた大きな石碑が建っている。しかし、私はここまでで、その学校のことを「日本労農学校」と書いてきた。それは、『八路軍』に「延安日本労農学校の記録」という副題が付き、文章中でも一貫してこの名称が用いられていることによっている。この名称の違いは何なのだろうか?

 気になったので、帰国してから『八路軍』を見てみると、そこに収められた当時の写真に写った看板にも「日本工農学校」という文字が読み取れるものと、「日本労農学校」いう文字が読み取れるものと二種類ある。どちらの名前も正しい、としか言いようがない。

 延安一帯の黄土高原では、一部の市街地を除き、昔から人々は「窰洞(ヤオトン)」と呼ばれる横穴式住居に住んでいた。黄土高原(土というよりも赤砂岩)に横穴を掘り、入り口を煉瓦で補強して家の体裁を整えた住居である。『八路軍』によれば、日本労農学校は、200平米ほどの教室と食堂の他は、住居である窰洞の集合体であったようだ。石碑の上に、今でもいくつかの窰洞があって、人が住んでいる。それらは労農学校時代からあるもののように思われる。しかし、それ以外には何もない。

 『八路軍』に載っている労農学校の学生達の写真では、学生達の笑顔が本当に素敵だ。日本軍を離れて、共産党地区の中国人の誠実さに触れ、全てが吹っ切れた、といった表情である。

 1945年8月15日に日中戦争が終わると、日本労農学校は閉校となった。8月30日に日本人学生の壮行会が八路軍の講堂で開かれると、学生達は延安を離れ、東北地区経由で帰国した。

 多くの日本人が過ごした場所に立つと、他の「〜旧址」に立った時とは全く違う、ある種の懐かしさのようなものがこみ上げてくる。日頃は日本人であることをさほど意識もせず、むしろ「日本人」という枠で何かを考え、行動の原理とすることを拒否しているような私だけに、その感慨は不思議であった。