「延安」旅行案内(2)・・・宝塔山と日本労農学校(前)



 延河大橋から徒歩3分、南川河が延河に流れ入る場所に宝塔橋という橋があって、ここを渡ると、正面に宝塔山の料金所がある。私が5時を過ぎてから行ったためか、この料金所は既に閉まっていた。しかし、ここから北にほんの少し歩いた所に、宝塔山の正式な登り口「大門」があって、ここは21時まで開いている。入山料は65元。これはビール付きで3回食事が出来る金額なので、中国の物価感覚に馴染んできた後だとつらい所だ。

 宝塔山(正式名称は嘉嶺山)に登って延安の街を見下ろすというだけなら、私は65元も払う気にはならなかっただろう。私があえて65元支払い入場したのは、この山の中腹に、日本人(主に日中戦争の捕虜)を集めて教育をしていた「日本労農学校」の跡があると知っていたからである。

 この学校については、そこの学生であった日本人(香川孝志、前田光繁)による『八路軍日本兵たち』(サイマル出版会、以下『八路軍』と略)という本があって、当時の状況を手軽に知ることが出来る。また、ガンサー・スタインは、『延安 1944年』(前野四郎訳、みすず書房)の中で、この学校について他の日本人組織のことと合わせて詳しく紹介しているので、延安における日本人社会について広く知るには、こちらが面白い。共産党が、主に捕虜として捉えた日本兵を教育する機関として設立した学校である。

(これを書いてからしばらくしてから、朱鴻召『延安日常生活的歴史』広西師範大学出版社、2007年に、「把日本戦俘変成革命戦友」という一章があり、日本工農学校を中心とする延安にいた日本人についての、20ページ以上に及ぶ詳しい紹介があることを知った。)

 当時の共産党は、捕まえた日本兵に危害を加えることを禁止し、帰りたい者は帰し、中国に留まることを望む者には、仕事や勉学の場所を斡旋する、といった規則を持っていた。斡旋する勉学の場所として、既存の学校ではなく、新たに日本人専用の学校を作ったのは、中国語が出来ない捕虜に配慮したということもあっただろうが、やはり中国人とは違う様々な事情を日本人捕虜が抱えていたことによるだろう。三つに分かれる延安の市街地の中で、北と西にはあちらこちらに政府機関や学校があったのに対し、最も可住地の少ない東地区にあった公的機関は、この日本労農学校と高等法院(裁判所)だけである。中国医科大学もあったが、これははるか北に離れている。いわば日本人を隔離した形となっているのは、日本軍に対する恨みが骨身に徹している中国人も少なくない中で、無用のトラブルを避ける、或いは日本人を守るという目的があったのではないかと思われる。

 『八路軍』によれば、この学校が正式に開校したのは、1941年5月15日であった。しかし、日本人への教育活動は、その1年くらい前から行われていたらしい。香川によれば校長は王学文であったが、香川も注記している通り、野坂参三は『延安の思い出』(『野坂参三選集・戦時編』新日本出版社)という文章の中で、校長は林哲、副校長は李初梨だったと書いている。林哲とは、野坂参三がモスクワから延安に行った当初使っていた偽名である。この学校が共産党の思想教育施設であったことを考えると、日本人を正式な校長にしたとは考えにくいが、労農学校跡を示す大きな石碑に「校長に日本共産党の指導者岡野進を任命した」と書かれているので、こちらが正しいと思われる。

 野坂参三は、中国では普段、岡野進という名前を使っていた。なにしろ、1940年3月にモスクワで怪我の治療をしていた周恩来が、自ら延安に連れて来たという(金冲及編、狭間直樹監訳『周恩来』阿吽社)から、極めて特別な存在である。スタインの『延安』にも、「延安の中国共産党員は、岡野進をたいへん尊重しており、完全に信頼のおける、頗る有能な人物と見なしている」とある。スメドレーの『偉大なる道(=朱徳伝)』(岩波書店)では、毛沢東朱徳の相談役として、また日本人捕虜の教育工作を指導するために、野坂は延安に来たとされる(来延の時期を1944年としているのは明らかに間違い)。野坂自身によれば(前掲書)、日本への帰国の道を探って周恩来に延安まで連れて来てもらったものの、可能性が見出せずにいた時、共産党から依頼されて対日工作に従事するようになったということだが、問題意識において共産党と違う所はなかった。日本人が延安にいたと言うよりは、共産党の指導者が日本人をしていた、と言った方が正しいような人物なのである。(続く)