東亜同文書院について(2)



 東亜同文書院について、多く語られるのは、自由な学校だったということである。例えば、日本国内の学校では必須となっていた軍事教練がこの学校では行われず、マルクスやプハーリンの著書も自由に読むことが出来た。校内で組織された左翼文献の読書会である中国問題研究会には、チューターとして尾崎秀実や王学文が参加していた。尾崎は朝日新聞上海特派員で、後にゾルゲ事件連座して処刑された人であり、王は、京都大学河上肇マルクス経済学を学んだ共産党員で、後に共産党の根拠地・延安で馬列(マルクスレーニン)学院の副学長となり、日本労農学校で日本人捕虜の教育にも携わった人物である。王は、やがて学内に共産主義青年団まで組織するようになる。このようなことが可能だったのは、建学の理念はもとより、その地理的条件から、日本国内の国粋主義的な熱狂に浮かれることもなく、治外法権に守られ、中国官憲の取り締まりの対象になっていなかったからだった。これらの結果として、日本からやって来たノンポリ、更には右翼的な学生が、この学校で左翼思想に触れ、熱心な活動家になっていった例も少なくないようだ。

 1927年4月12日、国民党の蒋介石は、共産党(及びそれに組織された労働者)に対する最初の大弾圧事件「4・12クーデター」を起こし、この後、反共姿勢を過激化させて行く。共産主義運動に関わることは、常に死と隣り合わせの危険な行為となってしまう。この状況下で、特権的自由を持っていた東亜同文書院は貴重であった。王学文がチューターとして堂々と出入りしていたことにも表れるように、魯迅の特別講義が行われ、彼を実質的な指導者とする左連(左翼作家連盟)のメンバーが出入りしたり、東亜同文書院の学生が秘密集会の場所を提供するなど、書院のメンバーは彼らの活動を援助したりするようになった。

 日本は侵略国、中国は被侵略国であるが、そのような単純な図式は成り立たない。なぜなら、国家として考えればその通りなのであるが、資本主義・共産主義といういわば階級理論で考えた場合、国民党は日本と同じ立場に立ち、共産党は対立する。従って、国民党・蒋介石共産党を敵視し、日本とは妥協的な政策を採ろうとした。だから、民族意識に目覚め、日本を敵視し、排日を叫ぶ中国人は、共産党に親近感を持つことになる。

 東亜同文書院が中華学生部を作ろうとした時、当時の上海総領事・有吉明は、教員が不足し、設備が不十分なまま学生を入れておいて、日本への就職・進学を世話しきれなければ、排日学生を養成する結果となることを心配していた。ところが実際には、書院に出入りした進歩的な中国人は、学校に対する不満によってではなく、その自由に守られる形で左翼化し、排日意識を鮮明にしていく。にもかかわらず、日本人による学校である東亜同文書院を、悪くは言わない。面白い現象ではあるが、理に叶っている。

 こうなってくると、東亜同文書院が日本の文化侵略の前線基地だ、などという考えはまったく当たらないことになるだろう。東亜同文会、あるいはそれに先立つ日清貿易研究所の理念からしても、「同文」は、かなり曖昧漠然とした仲間意識を意味するに過ぎず、中国を日本に同化させるなどという意図はなかったに違いない。

 Wikipediaに掲げられた「著名な出身者」の一覧で政治家に注目してみると、共産党社会党の幹部が5人であるのに対して、自民党の幹部は3人に過ぎない。この人数比は、東亜同文書院内の雰囲気を象徴してはいないだろうか?設立や運営に関わったメンバーにも、卒業生にも、日中関係の改善・発展に貢献した人物が多かった。この学校が、日本と中国との関係において果たした役割の大きさは、中国の現政権が共産党であるだけに、もっと大きく語られて良いような気がする。

 東亜同文書院は、上海に移った後も、諸般の事情によって何度か場所を変えたが、その黄金期の校舎は徐家匯の虹橋路にあった堂々たる煉瓦造りの大建築(1917年4月完成)である。この校舎は、1937年10月、第2次上海事変の際に中国に接収され、中国軍の放火によって11月に焼失した。

 私が1982年に初めて訪中した時、同行者の中に東亜同文書院出身のご老人がいた。かつての虹橋路キャンパスを見たいとおっしゃるので、寄り道をした。そこは、交通大学(同名の大学は中国各地にあるが、いずれも交通機関についての勉強をする大学ではない。「交通」とはコミュニケーションの意味で、理系を中心とした総合大学である)のメインキャンパスになっていた。当時私は、東亜同文書院などという学校を知らなかったので、漫然と眺めていたに過ぎないのだが、その時見た交通大学の建物は、東亜同文書院の建物を模して作ったものであると、後に東亜同文書院の写真を見て気が付くことになった。

 上で見たように、東亜同文書院が1930年前後の中国人左翼運動に貢献したことを意識し、評価して、その建物を模したとすれば、これはこれで意味のあることのように思う。

 遠くは日清戦争から日中戦争、近くは尖閣諸島を巡る駆け引きなど、とかくぎくしゃくしがちな日中関係であるが、必ずしも主流とは言えない所で、いろいろな人が、極めて良心的に、最善の日中関係を求めて汗を流していた。それは今でも同じことなのだろうし、そのような人は中国側にもたくさんいるに違いない。概観に過ぎないが、東亜同文書院の歴史をたどってみて、そんな感動を覚えた。