東亜同文書院について(1)



 1月27日の『産経新聞』に、「旧制高校寮歌物語」という連載の第25回として、「受け継がれた『夢と情熱』」と題し、東亜同文書院が取り上げられていた。その記事の中で、「東亜同文書院大学」という名前が使われていることにひどく違和感を持った。中国(清末まで)で「書院」というのは学校のことであって、東亜同文書院はあくまでも東亜同文書院ではないか、と思ったのである。よく見ると、記事の補足説明にも、1939年の大学令によって専門学校から大学へと昇格した、とあるので、終戦によって閉校になるまでの6年間は、確かに東亜同文書院大学と称されたのであろう。思えば、慶應義塾大学とか立命館大学といった例もあることだし、制度上の「大学」という名称を、本来の校名の後に付けるというのは、さほどおかしなことではないのかも知れない。それでも私は違和感を持ち、それをきっかけとして、この数日、我が家にあった僅かばかりの東亜同文書院に関する文献を読んでいた。栗田尚哉『上海東亜同文書院』(新人物往来社、1993年)、西所正道『「上海東亜同文書院」風雲録〜日中共存を追い続けた5000人のエリートたち』(角川書店、2001年)、大城立裕『朝、上海に立ちつくす〜小説 東亜同文書院』(講談社、1983年)と、若干の中国の雑誌掲載論文、それに数冊の上海史である。

 この学校は、1901年(明治34年)に日清貿易研究所を源とする東亜同文会という日本人民間団体によって中国・南京に設立された。しかし、南京にあったのはわずか3ヶ月で、その後上海に移るので、実質的には上海にあった学校である。東亜同文会は、日本人民間団体とは言っても、五摂家の出身で、兄は首相、自らも後に学習院院長を務める近衛篤麿が初代会長であったことに表れているとおり、ただの民間団体とは言い難い有力団体であった。会を設立したのは中国問題を研究するためであるが、これは中国を侵略し植民地化するために必要だったから、というのではなかったようだ。むしろ、日清戦争で勝利したことで舞い上がる日本国民の熱狂を冷めた目で見、アジアを蚕食する欧米に対抗するためには、中国にも地力を付けてもらわねばならず、それをてこ入れするための「中国問題の研究」であった。日本国内の慢心はもとより、福沢諭吉のような最高級知識人が「脱亜入欧」を唱える中においては、極めて高い見識であったと言うべきである。

 しかし、なにしろ、日本が大陸進出を強行しようとしていた時期に、共同租界を中心として多数の日本人が住んでいた上海にあった大学である。中国人の目には、侵略の拠点と映っても不思議ではない。実際、2004年という比較的最近の論文(周徳喜「東亜同文書院始末」『蘭州大学学報(社会科学版)』第32巻第3期)でも、「日本は不断に中国を軍事侵略・経済略奪すると同時に、文化侵略の方法を考え、表向き文化・教育といった体裁を取る日本人経営の文教組織を、その軍事侵略と経済略奪に加えた。東亜同文書院はその典型である。」(拙訳)などと評されている。これは建学の理念から言えば間違った理解であろうが、東亜同文会の理念が、欧米に対抗する真のアジアの共栄ではなく、日本を盟主として繁栄するアジアでなければいけない大東亜共栄圏構想へと同化していかなかったという保証もない。

 そもそも、もともと文字(言語)の統一を意味する「同文」という言葉は、20世紀前半においては、中国の日本語化だと考えるのが自然である。また、1920年、東亜同文書院には中華学生部が作られたが、この学部は親日派中国人の養成を目的としていたようだ。これとて見方によっては、日本の意のままになる知識人を育てて中国社会に送り込み、中国を内側から支配しようというものにも見える。(つづく)