「梁山伯と祝英台」(2)



 芸術が、政治的宣伝のための道具だという場合、「梁祝」はいったい何を訴えているだろうか。

 「梁祝」は基本的に3楽章形式の協奏曲だが、全体が切れ目なく演奏される。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲なども同様だから、それ自体は目新しいものではない。曲全体で標題にある「梁山伯と祝英台」の故事を描いている。簡単にあらすじを紹介すると、以下のようである。

「第1楽章=男装した祝英台が、遊学先で梁山伯と出会う。二人は仲良くなり、幸せに満ちた3年間の学生生活を送る。第2楽章=学業を終えた祝英台に、父親が結婚を強いる。もちろん相手は梁山伯ではない。祝英台は断固として抵抗するとともに、梁山伯に事態を告げ、涙ながらに語り合うが、間もなく梁山伯が急死し、祝英台は梁山伯の墓穴に飛び込んで自殺する。第3楽章=墓穴からは一対の蝶が飛び出してくる。蝶はいつまでも絡まり合いながら飛んでいる。」

 政治的なメッセージとしては、親が娘の結婚相手を決めるという中国古来の封建的なやり方に対する批判が考えられる。しかし、荒々しい部分はあるものの、全体としての曲相は極めて甘美なものであり、むしろ、プチブル的な頽廃主義として批判されても不思議ではない曲である。反封建のメッセージ性は弱い。

 実は、この曲の政治性は、ストーリーの中にはない。越劇(山東省の伝統劇)のメロディーを用いたという、民族的色彩の中にある。

 作曲者の一人、何占豪は1933年8月に浙江省で生まれ、1957年に上海音楽院管弦系に入り、ヴァイオリンを主専攻とした。1958年に数名の同級生と「ヴァイオリン民族楽派実験グループ」を立ち上げ、ヴァイオリン音楽と演奏における民族化の問題について検討を深めた。「外来形式の民族化、民族音楽の現代化」が座右の銘だったという。陳鋼は1935年3月に上海で生まれ、1955年に上海音楽院作曲系に入学し、ピアノも学んだ。私の知る限りで、「民族化」の問題に対する特別な思いがあったようには見えない。上海音楽院入学前に、越劇の伴奏者として仕事をしていたことのある何占豪がメロディーを決め、陳鋼がオーケストレーションをする、というのが作曲の基本的な進め方だったようだ。ヴァイオリニストと作曲家の卵が、それぞれの知見を出し合って、ヴァイオリンのための曲を作るというのは、さほど不自然なことではないだろう。

 民族と言えば、最近の私には、伊福部昭の「民族の特殊性を通過して、最終的には共通な人間性に達する」という言葉(信念)がすぐに思い浮かぶ。特殊をとことん突き詰めたところに、普遍が見えてくる、だから自分は民族性にこだわる、ということだ。しかし、何占豪や陳鋼にそのような思想があったとは思えない。

 1938年10月、中国共産党第6次党大会後6回目の中央委員全体会議が、延安で開催された。一連の会議の総括は、毛沢東によって為された「新段階論」と呼ばれるものである。その時、毛は、文学や芸術の表現について「新鮮で活発な、中国の民衆に喜ばれる中国的作風や中国的気風をもってすべきである」と訴え、これをきっかけとして、延安の文芸界を中心として「民族形式」についての議論が盛んになった。

 毛沢東がなぜ中国風の表現を奨励したのかは、昨日の話を覚えている人には明白だろう。宣伝工作の手段としての芸術は、より多くの人々に受け入れられ、親しまれることが必要である。その際、土着のメロディーや形式を用いることは有効な方法であった。求められていたのは大衆への浸透であって、普遍的な人間性の発見ではなかった。何占豪は、農村で自分の演奏するヴァイオリンに耳を傾けてもらえなかった体験に基づき、民族化の問題を意識し始めたと語っているが、これは、約20年前に提起された民族形式についての議論と重なり合う問題意識である。このことは、毛の問題提起から20年を経て、なお確固たる民族形式が見出されていなかったということを意味するようでもあるし、民族化が、決して古びることのない問題であることを意味するようでもある。

 つまり、この曲には、民族化を積極的に進めようという政治的メッセージが込められているのである。甘美で感傷的な曲でありながら、政府などによって批判されず、むしろ積極的に評価されてきたのは、それが理由だろう。

 初めてこの曲を知った頃は、そのいかにも中国風の曲想を面白いと思い、それなりに気に入っていた。今は聴く気にならない。さほどよくできた曲でないことが、私にも分かってきてしまったし、妙にわざとらしく甘ったるい物を感じて好きになれない。今でも録音は手に入るとは言え、かつて私が入手したようなバリエーションが作られなくなったことは、中国においても、この曲が徐々に地位を低下させていることを意味するように思う。我が家にあるカセットテープは、そんな楽曲評価の歴史を考える資料にはなるだろう。

(注)この文章は、主に『中国音楽詞典続編』(人民音楽出版社、1992年)と明言『中国新音楽』(人民音楽出版社、2012年)、そしてCD『何占豪管弦楽作品選輯』(TACX-2315、1990年)の解説書に基づいて書いたが、実は、何占豪自身が「集体智慧的結晶〜小提琴協奏曲《梁山伯与祝英台》」(『音楽愛好者』2007年第11期所収)という9ページにもなる文章を書いていて、作曲の経過や後日談を詳しく説明している。中途半端に引用するのは難しく、全文を訳出すれば面白いと思われる文章である。この場では紹介に止める。


(余談)

 一度だけ、生で「梁祝」を聴いたことがある。仙台フィルの第52回定期演奏会(1988年1月28日)であった。この時の指揮は、上海交響楽団音楽監督で、中国を代表する指揮者の陳燮陽(チェン・シエヤン)、独奏者は、読売日本交響楽団コンサートマスター潘寅林(パン・インリン)であった。おそらく、この演奏会は、仙台フィルの歴史の中で5指に入る質の高い熱演だった。ただし、残念ながら、主役は「梁祝」ではなかった。「梁祝」も悪い演奏ではなかったが、その前後に演奏されたグリンカ「歌劇ルスランとリュドミラ序曲」、チャイコフスキー交響曲第4番が、あまりにも強烈だった。陳燮陽は今後もたびたび客演するだろう(して欲しい)、と思っていたが、その後、今に至るまで仙台には来ていない。仙台フィルが呼ばないのか、陳(1939年生まれで、まだ存命)が断っているのか、事情は知らない。本当に残念なことである。当時、中国の演奏家は今ほど知られていなかったので、なおのこと印象は強烈だった。中国というのは奥の深い恐ろしい国だと思った。