「梁山伯と祝英台」(1)



 先週末からの3連休は、家族全員、誰も特別な用事がないという極めてまれな連休であった。我が家は大掃除。年末にはまだ早いとは言え、時期よりも時間が取れるかどうかの方が大問題である。ものすごい量のゴミを処理した。燃えるゴミが30リットル入りのゴミ袋に9袋と45リットル入りに1袋。更に、燃えないゴミが・粗大ゴミが風呂桶一杯分くらい。これでようやく、2階の物置の中が歩ける状態になった。

 処分した物のなかに、私のカセットテープというのがある。CDが登場する前に使っていたものである。これもほとんどは処分。資料的価値があり、CDで手に入らないごく一部だけを残すことにした。厳選して残ったのは、全部で15巻ほどである。

 その中に、かつて中国で集めた「梁山伯と祝英台」(中国では通常「梁祝」と呼ぶ。『水滸伝』に出てくる地名としての梁山泊とは、泊と伯の違いがある)という曲の録音がある。作曲者は何占豪と陳鋼の2名(合作)で、初演は1959年。元々はヴァイオリン協奏曲である。「元々は」と書いたのは、我が家にあるカセットテープが、それの楽器を変えての編曲版だからである。オリジナルのヴァイオリン協奏曲は今でもCDで手に入るが、楽器違いの「梁祝」は最近見たことがない。我が家にあるのはヴァイオリン以外のものだけで5種類、独奏に用いられているのは、ピアノ、ハーモニカ、高胡、琵琶、そして弦楽四重奏である。各楽器の音域がヴァイオリンとは異なるので、もちろん独奏パートにも手が加えられている。これ以外に、オリジナルであるヴァイオリン協奏曲が、カセットテープで1巻、CDが2枚ある。多くの編曲版が作られたことから分かるとおり、中国で大ヒットした曲であり、1984年には「梁祝」を弾くコンクール(つまり課題曲は「梁祝」だけ)まで開催されたことがある。

 せっかくなので、少し触れておこう。ここまでに書いたことの中にも、中国という国の性質がとてもよく表れている。

 ひとつは、「合作」というやり方の問題だ。芸術というのは、多くの場合、創作者の「個性」の表現である。だから、個性が異なる複数の人間による合作というのは、ほとんど行われることがない。しかし、芸術が個性を表現する以外の目的を持つとすれば、そこに「合作」の可能性や役割が生じてくるのである。

 分かりやすいので「合作」と書いたが、中国では1934年から、「集体創作」という方法が奨励され、様々な作品が「集体創作」されてきた。提唱者は中国共産党江西省瑞金に本拠地を置いていた時期に教育部長兼芸術局長であった瞿秋白。その目的は、主に芸術人材の養成と作品の大衆化である。

 1929年に開かれた古田会議で、中国共産党は、宣伝広報活動の重要性を訴え、大衆に社会状況や共産党の政策を伝え、結束を促すための手段として文芸を位置付けることを宣言した。これが更に強い形で再確認されたのが、1942年5月の文芸座談会における毛沢東の講話である。文学や芸術は創作者の個性の表現ではなく、宣伝教化のための手段であるべきだとされ、中華人民共和国の文芸政策においても基本方針として堅持された。

 瞿秋白の主張は、その具体化である。できるだけ多くの人々の意見を盛り込みながら作り上げた方が、より多くの人々に受け入れられる、つまりは大衆的な作品になるはずである。加えて、相次ぐ戦闘のさなか、宣伝活動のための人材を養成する余裕がない、どうすれば早く、より質の高い人材を育てられるか考えた時に、レベルの高い人間と低い人間を一緒に創作させるという方法が考えられた。もちろん、中国でも人や時代や場所に関係なく、全てが「集体創作」で創作されたわけではないが、「梁祝」の合作は、1950年代の中国でも、それがまだ生きていたことを示しているだろう。

 もうひとつは、知的財産権の問題である。様々な楽器のための編曲が、誰によって行われたのか。ピアノ版は陳鋼、琵琶版は何占豪と、それぞれ作曲者によって編曲されているから問題にならないが、高胡、ハーモニカについては書かれていない。弦楽四重奏(楊宝智編曲)も含めた3種類については作曲者の許諾があったかどうかも書かれていない。他の人の作品でも、オリジナルにあれこれ手を加えて出版するなどというのは朝飯前の国なので、それら3種類は怪しい。少なくとも、編曲者の名前が書かれていない高胡版、ハーモニカ版は変だ。芸術が政治と切り離せず、その宣伝活動のための道具だとすれば、それは社会の共有物であり、第三者が手を加えることは、その目的に沿っている限り、「勝手な」行為ではないという考え方が長く存在してきた。そんな考え方が、これらの背後にも少し見え隠れしている。

 もちろん、中国も徐々に現代化、もとい、欧米化が進んでいる。芸術が政治宣伝のための道具になっていなくても、政府(共産党)批判になってさえいなければ容認される、という状況があるようだ。譚盾(タンドゥン)のような国際的作曲家も誕生している。だが、譚盾が、活動の場をアメリカに移さなければならなかったこともまた、今の中国の状況を象徴しているだろう。(続く)