4月16日に、石田泰尚というヴァイオリニストのリサイタルに行った話は既に書いた(→こちら)。その時のプログラムに、モーツァルトのヴァイオリンソナタ第25番ト長調というのがあった。演奏会が終わってから、そう言えば、モーツァルトのヴァイオリンソナタが演奏会のプログラムになるのもあまり見ないし、私自身も、後期の数曲を除いてほとんど聴いたことないよなぁ、と思った。あの滑らかな軽快さは、BGMとしてとても心地よさそうだし、かくなる上は、全集でも入手して聴き通してみようと、モーツァルト大全集の中の「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ集」(全7枚)を買った。
それから約1ヶ月。ようやくそれらを全て聴き終えた。音楽はさておき、私が今回びっくりしたのは、解説書の記述であった。石井宏氏によるそれは、小見出しが「ヴァイオリン伴奏つきのピアノソナタ」となっている。ヴァイオリンソナタというのは、ヴァイオリンが主で、ピアノが伴奏だというのは「常識」ではないか。私はすっかり、石井氏が奇を衒い、視聴者の耳目を引きつけるために、あえてそんな変な小見出しを付けたと思ったのである。
ところが、その解説を読んでいくと、どうやらモーツァルト自身がそのように考え、言っているらしいのだ。しかも、一時期とか、特定の曲についてではなく、生涯に渡って、である。
私は、あわてて『名曲解説全集』を手に取った。そこの説明はどうなっているだろうか?ヴァイオリンソナタ冒頭の総説的部分で、執筆者の竹内ふみ子氏は、1963~4年(7~8歳!!!)に作曲された最初の10曲は「ピアノのパートにヴァイオリンが任意に付け加えられる形をとっている」と指摘する。そして、年齢と共にヴァイオリンの比重が大きくなって行く様を簡単にたどり、最後の三曲でようやく「ピアノとヴァイオリンが対等になる」とはするものの、最後を「とはいえ、モーツァルトのヴァイオリンソナタは全体としてみれば、やはり『ヴァイオリンの伴奏によるピアノソナタ』の傾向が強い」と結ぶ。石井氏の独断ではないのだ。
実際、『名曲解説全集』で取り上げられている1978年(22歳)以降作の10曲を見てみると、K304、376、454、481、526という5曲で、出版時の楽譜に「ヴァイオリンの伴奏を持つクラヴサンかピアノのためのソナタ」という類いの文言が印刷されていたらしい。ピアノが主でヴァイオリンが従、どうやらそのことは疑いようがない。なるほど、CDの箱が「ヴァイオリンソナタ」ではなく、「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」になっているわけだ。
このような知識を念頭に、音楽を聴いてみる。これは大変だ。もちろん、基本はピアノ曲で、ヴァイオリンはオマケとして聴こうと思うのだが、どうしても体がそう反応しない。ピアノとヴァイオリンが合奏する場合、ヴァイオリンが主、ピアノが従という「常識」は、すっかり血肉化されてしまい、抜け出せなくなっているのだ。しかも、最初の18曲は、鍵盤楽器として「クラヴサン」すなわちチェンバロが使われている。ライブならともかく、録音ともなれば、音のバランスは自由自在に調整可能なはずなのだが、実際通りにチェンバロの音が小さい。どう聴いても、ヴァイオリンの音の方がはっきりと聞こえるのである。
人間の耳というのは、音を選択できるようにできている。多くの音の中から、自分が聞きたい音を選択的に聞き取ることができるのである。しかし、それにも当然限度というものがある。なんとかして、ヴァイオリンよりもピアノを主に聴き取ろうとして無理をしているうちに、本当に気分が悪くなり、自分が何をしているのだかよく分からないくらいになってきた。
これはヴァイオリンとピアノの合奏である。何も二つの楽器に主従関係を付ける必要などないではないか。『名曲解説全集』で、これらの音楽を「独奏曲」の巻ではなく、「室内楽曲」の巻に収録しているのは、それなりの見識なのだ。
だが、そう考えるとますます、モーツァルトがピアノを主、ヴァイオリンを従としたのはおかしい、という気持ちが強まってきた。同時に、自分がそのように考える理由も明瞭になってきた。
肘打ちのような例外的な奏法は別として、ピアノは左右の手を使って最大で10個の音を同時に出すことができる。そのため、一人でメロディーと伴奏をこなすことができる。だから、そもそもピアノに伴奏は必要ない。むしろ余計なのだ。一方でヴァイオリンは、和音を出すのが苦手で、三つの音の和音になると、完全に同時に鳴らすことはできない(多分)。もちろん、旋律と伴奏を一人で演奏するのは、できるけれども難しい。だからこそ、主従関係はともかくも、伴奏楽器が力を発揮する。つまり、「ヴァイオリン伴奏つきのピアノソナタ」というのは、ほとんど言葉そのものが成り立っていないと言ってよいほど変なのである。
知的探求のテーマとしては面白かったけれど、もう今後は気にしないことにする。どちらが主で、どちらが従かはどうでもいい。やはりもっと素直に、聞こえてくる音をひとまとまりのものとして楽しむことにしよう。