大楽必易・・・ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番



 仙台フィルの第287回定期演奏会に行った。指揮は小泉和裕、曲目はベートーヴェンの「エグモント序曲」「ピアノ協奏曲第4番」、そしてR・シュトラウス交響詩ツァラトゥストラはこう語った」。私の目当ては、ジャン=フィリップ・コラールが弾くベートーヴェンである。コラールは、仙台フィルの40年の歴史でも、有名番付で相当上位に入るソリストであろう。加えて、古典派を代表する名曲である。

 とは言え、なんとびっくり、私がこの曲の実演に接するのは30年ぶり、たった2回目である(前回は1984年5月の宮城フィル(仙台フィルの前身)第33回定期で、小山実稚恵独奏、小林研一郎指揮)。この間、仙台でこの曲が演奏されなかったということもないが、片手の指の数にも満たないはずだ。おそらく、この曲が紹介される際には、「現在でもよく(頻繁に?)演奏される」と言われるのだろうが、それでいてこの程度である。年に100回以上も演奏会に出演するオーケストラの楽員や、東京に住んでいる人で、お金も暇もあるという人でなければ、「よく演奏される」を実感できたりはするまい。ちなみに、私の記憶によれば、私が過去35年間のライブで聴いたベートーヴェンのピアノ協奏曲は、第1番が2回、第2番はゼロ、第3番が3回、第5番が6回で、いずれもたいした数ではない。

 私のように、音を覚える力が人並み以下の人間は、録音というものがあり、容易に繰り返し聴くことができる状況でなければ、それぞれがどのような曲で、ベートーヴェンがどのような作曲家であるかは、把握も理解も評価もできない。「The classics」と言うべきベートーヴェンにしてこうであれば、他は推して知るべし。録音のなかった時代の人が、音楽をどのように聴き、どのように感じていたのか、私には想像すらできない。

 ところで、最近、伊福部昭にはまっている私は、この曲を聴くと、伊福部の座右の銘であった「大楽必易」という言葉を思い浮かべる。『史記』の「楽書」に見られる言葉で、直訳すれば「立派な音楽は必ず易しい」となるだろうが、伊福部自身は次のように説明している。「理論も哲学もあるんだけど、ちょうど果物のように、皮でくるんであって、見た目はつるっと、とても簡単な形をしていて、中にいろんな栄養やおいしい味やらが入っている、というのが望ましい分かりやすさですね。できればそういう作品でありたいと、いつも思っているんですけど。」

 巨大な編成の管弦楽曲でデビューした伊福部が、晩年、一面の箏だけで全てを表現できると信じ、楽曲の規模を縮小させたことを思うと、「簡単」「分かりやすい」は、小規模化にも結び付くだろう。

 自分で弾けないので偉そうには言えないけれど、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番というのは、楽譜通りに鍵盤を叩くというだけなら、さほど難しい曲には思われない。オーケストラも2管で、特別な楽器は登場しない。単純素朴、それでいて、噛めば噛むほど味が出る、といった風情の曲だ。これに匹敵するのは、同じくベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲くらいしかあるまい、と思う。「大楽必易」は、これらの曲のために存在しているような言葉だ。だが、「本物」は常に手強い。外形は正に「易」だが、だからこそ、逆に、演奏者にしてみれば「至難」なのではないかと想像する。

 残念ながら、コラールのベートーヴェンは不発であった。一番右側の指にばかり力が入っている感じで、高音がアンバランスにキンキン聞こえるし、ピアノに原因があると思われるオーケストラとのアンサンブルの乱れも気になった。目隠しをして聴けば、悪い意味で青年ピアニストの演奏だと思ったに違いない。威勢はよいが、硬質で青臭い感じのベートーヴェンであった。また、こんなスタンダードナンバーを、楽譜を見ながら弾いているのも解せなかった。しかも、パート譜にしては譜めくりの回数が多すぎるし、総譜を見ているにしては少なすぎるし、いったいどんな楽譜を見ているのだろうか?・・・そんなことも気になった。

 秀逸だったのは、さほど期待していなかったR・シュトラウスである。巨大で豊麗なオーケストラの醍醐味を堪能することができた。過去2年、ブルックナーの演奏で感服した小泉和裕氏(→昨年の記事)であるが、巨大なオーケストラを上手くコントロールし、バランスよく響かせるのに長けている、ということなのかも知れない。